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悟りっぽい経験② 歓喜と共に頭の上から降り注ぐ光
仏教に関して本質的な話をしようとするとついつい難しいものになりがちです。今回は一旦また気楽に読んでいただけるような、私の悟りっぽい体験についてお話しします。
私は子供の頃ピアノを習っていました。
生まれつき目が悪かったためか耳は良かったのですが、練習もしなかったので上手くなることはなかったのです。それでも中学までは細々と続けたのですが、高校入学ともに完全に辞めてしまいました。
とはいえ、グールドやポゴレリチのような変わり者のピアニストが好きで音楽の才能というものに漠然とした憧れがありました。
ある時私は本を読んでいました。最相葉月さんの『絶対音感』という本です。
その中に絶対音感の定義として、色々な先生の考えが示されていたのですが、その一つがドレミの音階をアカペラで正確に歌えるというものでした。その内容を見た瞬間、不思議なことが起こったのです。
強烈な喜びがを感じて、まるで頭の上から光が注いでくるような錯覚に陥りました。
私には何の音楽の才能もないと思っていました。しかし、音階をアカペラで歌うことはできたのです。それで単純なので
「私には絶対音感があったんだ!」
と感激したのです。しかもその喜びが尋常ではなく、幻覚を見るほど強烈だったのです。そしてそのような歓喜に包まれていると、また不思議なことが起きました。今まで楽器などの純音に近いような音しか音階として聞こえなかったのに、全ての音が音階として聞こえるようになったのです。壁を叩いても、床を踏みしめても「ド」とか「ファ」と音階で認識されます。しかも聴覚が敏感になっているのか、小さい音でも身の回りの音全てが一斉に耳に流れ込んでくるようでした。それら全てが正確に音階として認識できたのです。
喜びで有頂天になっていた私はしばらく身の回りのものを色々と叩いたりして遊んでいました。しかしそのような興奮が冷めてくると、音が聞こえすぎる状態がだんだん辛くなってきました。聞きたくないと思っても容赦なく音は耳に流れ込んできて、他のことが手につかないのです。しばらく続くと神経が疲れ果てて、いつの間にか気を失っていました。
目が覚めると聴覚は元に戻っており、生活音が音階に聞こえるということもなくなっていました。
人は望んでいたことが叶うと、想像を絶する歓喜に包まれることがあります。私の場合望んだものが「音楽の才能」という日常的なものでしたが、もしそれが宗教的、あるいはスピリチュアルな非日常的、神秘的望みだったらどうでしょうか。
例えばその人がキリスト教徒で神の恩寵や啓示を望んでいたら…このような歓喜の瞬間が訪れたとき、まさに神の存在を確信していたことでしょう。
人間は何かが「わかった」とか「叶った」と思った瞬間に脳内麻薬が出て薬物のトリップのような状態になることもあるのです。でもそれは何か外から特別なことが訪れたのではなくて、自分の内側が少しおかしくなっただけだとも考えられます。とはいえそれでも本人の主観的には強烈な体験です。何物にも変え難いもので、もしかすると人生を変えるような経験かもしれません。
ただ仏教的な観点からいうとそれは本質的な意味でその人を変えるわけではありません。その人が生きてきた物語は変わり、苦しみの意味も変わるかもしれませんが、苦しみそのものがなくなるわけではありません。転換した人生の中でそれなりに幸せに暮らしていくかもしれませんが、苦難に押し潰されてしまうかもしれないのです。
仏教の「悟り」と言うのは物語が書き換わるのではありません。物語が「終わる」のです。そしてそれは観念的な苦しみの「終わり」でもあります。
読んでいただきありがとうございました。