吃音とはなんぞや。
「吃音」それは、どもりとも言われたりする。
簡単に説明すると、頭の中では喋りたい言葉や文章が整理されているにも関わらず、それがスムーズに言葉となって出てこないこと。
吃音には大きくわけて3種類ある。
連発→「あ、あ、あ、ありがとうございます。」
伸発→「あーーーーーりがとうございます。」
難発→「、、、、ありがとう、、ございます。」
みたいな感じかな?ちなみに自分はほとんどが難発で、たまに連発が出る。吃音は緊張した場面で特に出やすく、人前で発表する時はもう吃音が出ることを覚悟している。
ここで、吃音の人が一番嫌いな4字熟語を紹介します。
「自己紹介」
これはもう間違いないはず。吃音持ちの人はこの言葉を聞いた日には死を覚悟するだろう。しかもこの自己紹介が行われるのは、新学期が始まった時や、初めましての人に出会う時。つまり何かのスタートラインに立った時だ。スタートラインに立ち、「さあ今日から頑張るぞ」「これからよろしくお願いします」そんな風な気持ちを抱いてる矢先に自己紹介で盛大に吃音が出て相手に変な人だと思われるのだ。こんな悲しいことがあっていいのか?笑
吃音が出る時は併せて不随意運動が出現する人もいる。自分の場合は、無理して言葉を出そうとしすぎて、口が硬く固まったりプルプル震えたり、目を閉じてしまったり、大量の汗が出る。まあ人によってここは様々だ。
でもなぜか、吃音は歌を歌っている時には出ない。歌は人前であってもどこであってもスムーズに歌える。うた歌えるんなら普通に話す時も言葉出てくれよ!って何度思ったとこか。笑
悲しいことに吃音の治療は確立されていない。中には精神科に通っていて、精神を落ち着かせる薬をもらっている人もいるが、効果がある人もない人もいる。ちなみに自分は病院に通っていない。
吃音は緊張した場面で出やすいと言ったが、自分の場合は家族や友達と話している時にも吃音がでる。おそらく吃音を持つ人で、友達に喋り方をバカにされたり真似されたりしたことが無い人はいないだろう。きっと誰もが通る道だ。友達にバカにされるのは辛い。でももう慣れてしまった。でもやっぱり辛い笑
吃音というものを今までずっと友達に隠して打ち明けずにいた。でも看護学校に入ってからは同級生の男子の一人にそのことを打ち明けてみた。すっごく勇気が必要だった。でもそれからはすごくすごく生きやすい環境に変わった気がした。誰かに自分のことを打ち明けるには勇気がいるけど、ほんとに仲がいい子には言ってみるのもありかもしれない。
吃音は日本では100人に1人程度の割合でいると言われている。人によって感じ方は違うだろうが、けっこう多いと感じませんか?ひとつの学校に1〜2人くらいはいるってことですよね。学校によっても人数に大きな差はありますけど。自分は小中学校で吃音の子2人に出会ってきました。失礼極まりないけど「自分以外にも吃音の人っているんだ。」って少し嬉しかった。安心した。
吃音は子どもに多くみられて、成長していく段階で自然と吃音が消える子が多い。
あれ、、?自分もう20代だぞ、、、?なんで子どもの頃に自然に消えてくれなかったんだよ!と日々吃音を恨む毎日です。
でも看護学校に入ってから、吃音というものに対する考え方が少し変わってきて、今までは「吃音があることをどうやって誤魔化そう。どうやって隠そう。」とばかり考えていた。けど今は「吃音がありながらどうやってその事を達成しよう。」と少しずつ吃音を受け入れて考えるようになったと思う。
看護の世界は、報連相。報告・連絡・相談の毎日だ。実習に行ってそれを痛感している。当然、看護師と話す時は吃音が出てしまう。でももうそれは仕方がない。吃音に対してつっこんでくる看護師は少なくとも自分の実習先の病院にはいない。
吃音がありながら報連相をしていく上で大切だと感じていることは、「話すことに優先順位をつけること。」
普通の人が5分間で10のことを話せるとしたら、吃音を持つ人はだいたいよくて3くらいしか話せない。
じゃあその限られた3をどの内容にするか。
①「今日は患者さんと○○な話をしてコミュニケーションを取りました。」
②「患者さんの9:00のバイタルサインは血圧〜で、SpO2〜で、、、。」
上の①と②。どちらか一つしか話す時間しかないとしたら、どちらを選ぶか。答えが分かりきった質問だけど、これは当然②を選ぶべきだ。患者さんとコミュニケーションを取ったということよりも、患者さんの命に関わることから優先して伝えていく必要がある。
自分が言いたいのはそういうこと。これで今までの実習も乗り越えてきた。吃音があるから報告できなくても仕方がないでは済まされないのだ。吃音があっても看護師として働く以上、最低限の報告はどんな方法であっても、どんな手段を使ってでもしなければならない。でないと患者さんが死んでしまう。
吃音を持つ学生に伝えたいことは、「自分が何を話したいか。」ではなく、「今一番何を伝えるべきか。」を考えていく必要があること。
吃音と一緒に生きていくことは難しい。でも仕方がない。どうやって吃音がありながら自分がすべきことをこなしていくか、日々考える毎日だ。