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勉強するのは何のため?
どこがく授業動画の新シリーズ「押しつけ読書感想文」
記念すべき1冊目は苫野一徳さんの「勉強するのは何のため?」です。
苫野さんの語る結論としては、「この問いにひとつの答えなんて無い」ということ。一人ひとり望む生き方が違うのだから、勉強する理由も異なる。
<自由>になるため
でも、「勉強するのは何のため?」という問いに対して、みんなに共通する「納得解」と言えるのが「<自由>になるため」なのではないか。
ここでの<自由>とは?
できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、
生きたいように生きられているという実感
そう述べられています。
なるほど。
「自由になりたい...」という感情を持つ人は少なくない。
それは、何かから解放されたいというより、生きたいように生きたいということなのかもしれない。
どんな風に生きたいのか、それはなかなかわからないけど、
なんとなく満たされない...なんか違う気がする...
そう感じる時はあったりもする。
この”なんか違う”毎日を繰り返すことって、結構苦しかったりもする。
この”なんか違う”という感覚と向き合い、どんな風に違うのか...そう感じた時にはどうしたらいいのか、 そんな時間を「学校」で過ごせたらいいのに。
<自由の相互承認>の原理
だれもが自分の<自由>を主張し合うからこそ、人類はこれほどにも長い間、どうしても戦争をなくすことができなかったのです。
戦いを終わらせるために、哲学者たちがたどり着いたのが「<自由の相互承認>の原理」なのです。
<自由>になるための最大の条件、
それは、さまざまな知識や技能を身につけるだけでなく、
<自由の相互承認>の原理をちゃんと理解し、その”感度”を身につけるとは、つまり、頭だけじゃなくいわば感性に刻み込むということです。
いま、「学校」は<自由の相互承認>の感度を育む場になっているのでしょうか。
もちろん、いくつかの事例を挙げて、ほらできてない!と一般化するつもりはありませんが、
今の「学校」は...個の知識・技能を上げることばかりにニーズがある気がするのです。もちろんすべての学校ではないし、すべてのご家庭ではないですが...。
子どもたちは、自分の<自由>への感度すらも麻痺させながら...誰かの役に立ったのであろう何かを押しつけられているように感じる時すらあるくらい。
脱学校論
今の「学校システム」が生まれたのは約150年前。この間ももちろん様々な論争がつづいている。
1970年代初頭、イヴァン・イリッチという人が
一人ひとり学ぶことや価値のあることは違うはずなのになぜ一緒くたにされて同じことを同じような方法で学ばないといけないんだ?
今の学校システムは、社会の上層にいる人たちが、自分たちの階級に都合のいいようにつくっているだけなんだ!
学校なんてなくしてしまおう!
そんな「脱学校論」を述べたそうです。
苫野さん自身はこのイリッチの考えにすべて賛同しているわけではないそうですが、
40年以上前にイリッチが「学校」に変わるシステムとして提案した新しい教育のアイデアについて紹介をしています。
● 学びの機会を学校に独占させるのではなく、社会の中でネットワーク化する
● 子どもたちはそのネットワークの中で、自分に合ったもの、自分に必要なものをみずから学んでいく
● 学校の固定的な人間関係の中じゃなく、そのネットワークの中で自分に合う学習仲間を見つけていく
「学習のためのネットワーク」「オポチュニティ・ウェブ(機械の網の目)」と言われるアイデアはインターネットの進歩によって実現可能となっているそうです。
いやいや。<自由の相互承認>はオフラインの「学校」という場じゃないと学べないでしょ? と確かに言いたくはなる。
でも...それは、今の「学校」が<自由の相互承認>を学ぶ場となれているならばだ。
コロナによる休校期間中、子ども達はすぐに「友達に会えないことがつらい」と気づいた。
一人で勉強するより、仲間がいた方が楽しい...と。
他愛ない休み時間の会話や帰り道...それがちょっと恋しいと。
(もちろん、それらが苦しかった子たちにとってはある種の「解放」でもあったようだが...)
でも、大人はどうだったのだろう。
授業時間数、学力保障、成績のつけ方...
もちろん学習権の保障は大人の義務だが、どこを見て、だれを見て、何に紛糾しているのかがなんだかよくわからなくなる日も多い。
「学校」の役割はどこに向かっているのだろう。
知識と技能をそれぞれが身につけるだけでは、人は<自由>にはなれないのに。