HSPなりに、ただ日々を生きていく
この記事が、私がnoteで書いた記事の中で、一番「スキ」をもらっている。
それだけ、世に「HSPという概念」について知りたい人がいるんだなあと感じている。
HSPという概念、名前に出会った時、私は「こ、これだ…」と脱力しながらも感謝するというなんとも不思議な感覚を覚えた。
自分は一体なんなのか。
つまり、人混みやうるさいところが苦手で、怒鳴る人なんてもってのほか、心がいっぱいいっぱいになった後は数日家から出られない。
なのにショークラブの仕事では派手な格好で踊りまくる。ポールダンサー、ショーダンサーとはそういう仕事だから、そう演じなければいけない。お客さんに勧められるままに浴びるほど酒を飲み、大声で騒ぎ、友達もみんな派手なダンサー。
休日は疲れ切って、どこにも外出できず、誰とも連絡を取ることができないほど憔悴している自分と、職場にいる自分が乖離している。
自分がなんだかわからない。
なんだかわからないなりに必死で生きてきたが、自分はHSPなのだと思えるようになったことで心底、自分の扱いを知った気がした。
限界になる前に休めばいい。苦手なことはできるだけしない。限界になってしまったら、その時とれる最善の手段で回復に努める。
それまでは「わけのわからない不調」としか思えなかった一連の状態が、自分の特性によるものだとわかり、安堵することができた。
わけがわからない、というのが一番不安なものだ。
自分はこの世にフィットできない、はみ出しものであり、みんなができて当然のことができないのだ、と自分を責めた。
HSPという概念があることを知るまでは。
ただ私が悪いのだ、とか私がおかしいのだ、としか思えていなかった。
セクシャリティもそうだと言える。私には妻がいる。女であり女が好きな人が、この世に自分しかいないかもしれないと思った時の絶望は筆舌に尽くしがたい。それらに名前があり、人口の1割程度は存在していると知った時の安堵。生きていてもいいんだな、ここにいてもいいんだなと思えること。
名前がある、とはそれだけ大切なことなのだと思う。
白黒はっきりつけなくてもいい、不安定な状態が存在してもいい。
そしてその不安定な状態にも細かく名前をつけてあげることが、この世の中を生きていくコツなのだと思った。
HSPという名前じゃなくたっていい。
ときどき、「なんか人とは同じようにできない感じ」とか「今日はそういう日」というラベルを貼ることを、自分に許してあげたい。
そうすることでやり過ごせることがある。
ただ、今日という日を生きていける。
おわり。