カフカなんて読むもんじゃない
肌寒いだろうと思い毎晩、重ね着をしてベッドに入る。けれども寝ている間に暑苦しくなり、結局、一晩かけてぜんぶ脱ぎ散らかしてしまう。まるで脱皮だ。脱け殻のように散乱する服と、ハダカの私。季節の変わり目はどうにも体温の調整がむずかしい。
昨夜はすっかり目が冴えてしまって、なんとなくカフカの短編集を手にとったのだったが、《流刑地で》を読み終えて「やっぱり夜中に読むもんじゃないよな」と後悔する。でもいつ読むんだ? カフカなんて昼間だって読むもんじゃない。
しかし読まずにはいられないのがカフカだ。朝も昼も夜も、平日も週末も、どんな季節も、「今日はカフカの気分だな」なんて日はおそらく永遠にやって来ない。彼は悪天候のようなものだ。予期せず降りだし、徹底的に打ちのめし、去ってゆく。そしてそこに虹を見たとき、人はカフカの虜になる。雨雲は再び立ち込め、この限りある人生の昼でも夜でもないどこかで、我々は何度も何度も繰り返しカフカを読むことになるのだーー。
なんせ寿命が短かったために、彼の天才はほとんど発揮されずに終わった。ぶっ飛んだ発想の人でありながら、設定がしっかりしているために、あり得ないような出来事もすんなり読ませてしまう。(この天才はカルヴィーノやガルシア・マルケスにも似ている)
彼にもっと生きる時間があったなら。いったいどんな傑作を書き上げただろう。恐ろしい。
宮沢賢治も短命の人であった。彼の作品は未完のものがほとんどで、それを編集して体裁を整え世に出したのは、賢治の実弟、宮沢清六である。
賢治の書きかけの原稿の、そのハチャメチャっぷりを見ると、宮沢賢治の正体はもはや宮沢清六ではなかったか、という考えがチラつかないでもない。(もちろんそれは賢治の思想を揺るがすものではない。あくまでも商業的な一部分である)
しかし賢治が長生きしたとて、傑作は書けなかっただろうと思う。これもやはり、賢治が天才だからだ。彼は、人間ひとりの一生では到底書き上げられないほどの思想を生んだ。これはもう賢治だけの問題ではない。弟が引き継ぎ、我々が引き継ぎ、この先もずっとずっと保ち続けられなければならない、それは真理である。
もしも賢治のアイディアを本当に一冊の本にすることが出来るなら、それは聖書にも匹敵するようなものになるはずで、成立するには長い長い年月を必要とする。残念ながら今この時代に生きている我々がその完成を目にすることは出来ない。出来ないけれども、賢治も、我々も、みんな "それ" の一部であることは忘れずにいたい。
《春と修羅》の序文を引用しておく。
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