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イエス!とくれば

 古い知人からの電話がしつこいーー。
 会わなくなって20年以上が経っているはずだが、今でも数年おきに電話が鳴る。昨日も鳴った。私は出ない。

 彼女は敬虔なクリスチャンだ。素晴らしい女性だ。東京時代それなりにお世話になったし、大好きな先輩だった。が、勧誘には辟易する。


 聖書も、これまでの人生で何度か読んでみたが、残念ながら私は「イエス!」とくればキリストより高須クリニックのほうがピンとくるような女だ。教会へ行って、ご丁寧にお茶やクッキーを出されても、一緒にゴスペルを歌ってみても、ただただ居心地が悪いだけである。親切にされればされるほど、申し訳なく思ってしまう。
 単純な話だ。つまり私は100%、自分がクリスチャンではないことを知っているのである。これは自分がレズビアンではないことを知っているのと全く同じだ。誘われても断る以外に選択肢はない。


 こちらが100%だとすると、相手には分は無いはずである。ところがセールスマンや生保レディと違って、さすがにクリスチャンだ。彼らは勝算ではなく「絶対的な神の愛」を信じている。もともとが理屈ではないのだ。何度、断られようが、どれだけ迷惑がられようが、彼らが「打ち負かされることが無い」のはそういうことである。
 しかし善良なクリスチャン諸氏には、肝に命じて欲しい。「信じる」という行為には何の根拠もない。むしろ根拠がないからこそ、UFOやネッシーやお化けや神は「信じる」しかないのである。「信じるか信じないかはあなた次第」であって、他人を巻き込むべきではない。


 そして何かを信じるには、基本的に「無知」でなくてはいけない。
 驚くことに、地球は平面であると信じている人々は現代でも一定数いるらしい。一方で私達は、地球が丸いということを信じているのではない。過去の調査や論文や衛星写真などが示す証拠により、事実として「知って」いるのである。
 つまり「信じる」とは、「知らない」ということである。知る努力を怠り、事実をないがしろにする行為である。「我が子を信じている」という親に限って子供のことをまったく理解していないし、「神を信じる」という心理の裏には、どうしようもない「疑い」が潜んでいる。クリスチャンほど見事に神の非存在を証明する者は他にない。
「私は神を信じません。なぜなら神は存在しているからです」
 そう言える者はひとりもいないのだ。


 宗教だけでない、都市伝説でもビジネスでも恋愛でも同じだ。「オレを信じろ!」という人間は何の根拠も持っていない。物事を証明する力を持たず、あなたを騙すか、ただ自分自身をごまかすのに必死なのだ。


 ーーそれでも。

 私のことを案じて電話を鳴らしてくれるのはこの世にたったひとり、クリスチャンの彼女だけである。これは事実だ。もちろん彼女の目的は理解できるが、電話に出ようともしない無礼な私の態度をどう思っているのか、何を考えているのかはさっぱり分からない。ーーたぶんそれが、私のようなこじらせ仏教徒や、高須クリニックには無い、「イエス!キリスト」の愛なのであろう。

 Hallelujah!


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