男湯へようこそ
焼き肉食べ放題。「女性半額は性差別!」とか言っちゃう人の気持ちも分からないでもないが。主観で見るとそうなるんだよね。なんとなく「女性だからこう」と決めつけられてる気がして嫌悪感ばかりが先走ってしまうのだ。
しかし「差別」とはなんなのか。「平等」とはなんなのか。ーーそんなことを私は20世紀からずっと考え続けている。なぜかというと、父との関係性から男尊女卑の世の中をじっと観察していたのもあるし、極めつけに、当時、前年までは男子校だった高校にただひとりの初の女子生徒として入学してしまったからだ。地獄の3年間であった。
当時の社会に女性を受け入れる環境など全く整っていなかった。男女平等を目指すべく、試験的に間口が広げられたのであるが、それはまるで、「さぁどうぞ」と男湯に通されるのと同じであった。
当然のことながら学校に女性用の更衣室などはなく、体育の授業では物陰に隠れて着替えなくてはならなかった。男子は私を性的なオモチャと信じ込んでいた。毎回、毎回、着替えをのぞかれているのが分かっていても、どうしようもないのである。「男社会に飛び込んできた女が悪い」のである。
そんな性被害を受けた直後で「男女差別は良くないから」と、男子と一緒に柔道の寝技をさせられるのだ。マットに押し倒されるのだ。私にとってはレイプされているのと同じだった。
苦境を訴えようとすれば、やる気がないだの辛抱がないだのと言われ、泣き寝入りするしかなかった。それが「合法」なのだということが悔しくて気が狂いそうだった。
男子チームにただひとり混ざるバレーボールの試合も、痛くて痛くて恐怖でしかなかった。私の体は青アザだらけになった。
「男と同じくらいやれる女もいる。なんでおまえは頑張れないんだ」
オリンピックの強化選手やプロレスラーみたいな例外で語られても困る。(それだって体罰は許されない)
また逆に、男子には体育をやらせておいて、私のことは呼び出してとなりに座らせ、お茶を汲ませたりおしゃべりをしたりと、キャバ嬢扱いする教師もいた。
着替えの時だけでなく、男子は常に私にいたずらする機会をねらっていた。階段の下に回り込みスカートの中をのぞかれたり、すれすれに体を寄せて来て生理の臭いを確認しようとしたり、放課後に待ち伏せされどこかに連れ込まれそうになったり、生徒だけでなく、私と「性的関係を持ちたい」という教師もいた。さすがに身の危険を感じ、勇気を出して父親に言ったことがある。父は一瞬間、深刻そうな顔を見せ、すぐに「それはないでしょ」と笑って私を否定したーー。
学校にただ二人しかいなかった女性教師のうち、一人は若い保険教諭で、男性教師や男子生徒と関係を繰り返すバカ女だった。もう一人は家庭科のおばあちゃん先生で、彼女は私がつらいのを知っていて何度か声を掛けてくれたことがある。
「男女平等へのこれは第一歩なのだ! あなたはすごいことをしているのだ! 私は感動している!」
そんなことより助けてほしいーー、そう思って当時の私はぐじぐじ泣いてばかりいた。だが今ならば分かる。時代の変わり目には犠牲が伴う。私だけではない。保険教諭もおばあちゃん先生も、あの男性社会でどれだけ苦労したことだろうか。私たちがいなければ、きっと20世紀は明けなかった。
男は男らしく、女は女らしく。私の時代、男児は青いランドセル、女児は赤いランドセルを強いられた。これを守らないと「バッテン」を付けられることになる。
「男らしく」と言われることに息苦しさを感じていた男性ももちろんいただろうが、実際には女が男に支配されるという構図で社会は成り立ってきた。生まれついた性別 (あるいは人種) によって、加害者と被害者に振り分けられる。これが「差別」である。
女性が、男性と同じ事をやるのが「平等」ではない。
男女で更衣室が分かれているのは必要な「区別」である。
いまだ生理用品に保険がきかないのは「不平等」である。
女性が神社仏閣などの神聖な場所に立ち入れないのは「差別」である。
宝塚がいつまでも女性専用でなければならない理由はない。環境が整えば将来的に共学になってもなんら問題はない。(反発はあるだろうが)
女性が男性と一緒に相撲を取れないのは「区別」である。
女性が土俵に触れてはいけないのは立派な「差別」である。
今の多様性の時代ならば男女差だけでなく、もっと様々な視点が必要だろう。どうであれ、「私とあなたは違う」ということ。この「差」を認め合い、他と協力し、誰も犠牲にしないこと。これが「平等」である。
さて、焼き肉食べ放題だ。女性半額は差別なのか?
様々な人々が共存している世の中で、「食べ放題の集客をしようと思ったらどんな戦略が必要か?」というだけの話である。もしもあなたが焼き肉店の店長で、「差別は良くないから男性も女性も子供も高齢者も障害者も同額!」が正しいと思うならそうすればよい。
「僕は男だけど仕事に就けず貧困で苦しんでます」という人は「女性優待」や「高齢者割り」にケチを付けたくなることもあるだろうね。「貧乏人半額」プランもそのうち出てくるのかも知れない。
ニーズに合わせてサービスを提供することは「差別」ではない。むしろニーズを無視してしまっては、不平等につながる恐れがある。
何をするにしても、自分にとって都合の良いことが、見えないところで誰かを犠牲にしてしまっていないか、これを考え続けるのが平等への唯一の道ではないのかね。どうなんだね。