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キツネの目を見たことはあるか。
昨夜、ちょうどベッドに入った頃であった。外でフクロウのような鳴き声が聞こえた。
ほー、ほうほう、ほー、ほうほう。
虫たちの声と相まって、なんと幻想的な癒しの音楽であろうか。このまま何時間でも聴いていよう、寝不足などかまうものか、私は「今」好きなように生きるーー、そう意気込んで耳をすましたのだったが、どうやら私はソッコー寝落ちしてしまったらしい。(おかげさまで今朝は久しぶりにすっきりとした気分だ)
調べてみると、鳴き声の正体はフクロウではなくどうもアオバズク(フクロウ科ではあるが)のようである。街灯に集まる虫を餌とするので住宅地にもやって来やすい鳥だそうだ。私のアパートは小さな森に面しているため、辺りはいつでも鳥の声が響いている。それにしたってアオバズクの鳴き声は初めて聞いた。新しい餌場が気に入ったなら今夜もやってくるかも知れない。運が良ければ姿さえ見えるかも知れない。わくわくするーー。
私が孤独を好むのはそういうことだ。ひとり静かに読書でもしていれば、自然の気配に気付きやすい。物音や、におい、振動、視線、違和感ーー。
18歳で東京に出た頃、出身地の雪国の様子をみんなに話してやったことがある。
「真夜中に雪の降る音が聞こえるんだよ。朝は雪のにおいでいっぱいだよ」
すると都会っ子たちは急に笑いだして、私のことをまるで子供のようにあしらったのだった。ーーおとぎ話と思われたのである!
騒がしく生きていたら、見逃してしまうことはたくさんある。実際、東京時代で思い出せることと言ったら友人らとどんちゃん騒ぎをした記憶ばかりだし、それはそれで楽しくないわけではなかったけれど、なんとも身のない過ごし方をしてしまったものだと、今ではさみしく思ったりする。
一日の終わりに、人々が酒を飲んだり、家族団らんや、TVもゴールデンタイムだったりして、最も騒がしく過ごしている頃、私のアパートの前をこっそりキツネが横切ってゆく。時には大声で鳴いて鈍感な人々をギョッとさせることもあるが(キツネの鳴き声は人間の悲鳴に似ている)、たいがいは忍び足で、街灯の真下を横切るときに一瞬、その姿をこちらに現す。その時点では口にくわえている獲物はまだキューキュー鳴いていて、再び闇にまぎれた彼らの気配を私は目や耳で追うのだけれど、毎回、黒々と盛り上がった丘のてっぺん辺りで獲物の断末魔の声はキュ、と途絶えてしまう。そのあとはキツネが草木をかき分け進む音がサラサラと不気味に遠のいてゆくばかりであるーー。
巣穴の位置もだいたい分かる。人間が立ち入る場所ではないけれど、すぐそこだ。
まだ陽が沈みきらないうちに、生まれたばかりのキツネの子供らが、なんとも無邪気にじゃれ合いながら母親のうしろを転がるようについてゆくこともある。人間に見つかってしまうのではないかとハラハラさせられるが、これだけの数の住宅の窓が外の世界に面していながら、人間というのはたいしてそれを眺めない生き物のようだ。TV画面やパソコン、スマホ、ペット、我が子、家の中に「観る」ものはたくさんある。自分の顔を鏡で何時間も眺めていられる人もいる。
私は人間とは気が合わない。気の合う人とはまだ出会ったことがない。会う人、会う人、「あれは好き?」「これ知ってる?」と、自分の性癖を"ご披露"くださるが、そのどれもが著しく自然から分離している。
自然から分離した生き方が、環境、そして自分自身にどういう影響をもたらしているか、分厚いコンクリートの中で生活している人類には実感しづらい。
人間は、犬猫をおもちゃにしておきながら、自分たちのことを「動物愛護者」だと信じているし、週末にキャンプや登山を楽しんで「自然を大切にした」つもりでいるが、アウトドア施設を「自然」と思い込んでいるあたりがゾッとするではないか。
田舎の山を破壊して太陽光パネルを設置するなどという大規模な自然破壊を、悪徳業者に合法的に許可しているのは、常識人ぶってSDGsの歌なんぞを歌っている連中だ。「持続可能な生き方をしている」など、世間知らずの都会っ子の幻想である。
キツネの目を見たことはあるか。あの、人間を見るときの目をーー。彼らは我々の偽善を見抜き、軽蔑しきっている。