人間の本体は「脳」か「腸」か?
昨年の日記を見返していたら、2022年11月8日は「442年ぶりの皆既月食」とある。
そういやそんなことあったっけ。皆既食中に月のうしろに天王星が入り込む天王星食だとか、皆既食と惑星食が同時に見られる世にも珍しい天体ショーだとか、次回、日本でそのような惑星食が見られるのは332年後で、2344年の土星食になるだろう、とかなんとかチンプンカンプン。(だまって和食を食えってんだ!)
だいたい皆既月食というのは月が見えなくなる現象のことではないのか。見えないものをどうやって見るというのかーー。
442年前の人々にくらべて、自然と分離しきった我々には見えなくなってしまったものが数多くある「はず」である。だが我々はすでにそれを知らない。
星空を眺めるにも天体望遠鏡を持ち出したりして、野鳥を愛でるにも双眼鏡が手離せなかったりして。自分の都合で物事を覗き込んで、そんなんで「見えた」気でいるんだから。あれもこれも「知った」つもりでいるんだから。
実際の我々はきっと夜空なんて見たことがないのだ。動物も、草花も、すべて媒体越しの作り物だ。
雨風や台風も、電車の時刻表のように誰かが知らせるスケジュール通りにやって来るものだと思っているし、桜の木の前に立ってもテレビの開花宣言を聞かなくては咲いているのか咲いていないのか判断できないし、炎天下に自分が水分補給をするべきかどうかも他人に指数を示してもらわなければ決められない。
頑丈なコンクリートに囲まれて、チカチカする電球を見せられて、堕落した道具を見にまとい、すっかり生身の生命力の衰えてしまった現代人にとって、いまや頼りになるのは「情報」がすべてである。脳の刺激になりさえすればそれは虚仮でもかまわない。だからレンズ越しでも見た気になるし、他人の思想も経験も自分事になってしまうし、推しと恋愛したつもりにもなれる。「442年ぶり」という情報を与えてやれば、月の見えない真っ暗な夜空も珍しがって真剣に見上げるのである。
そして残念なことに、この虚構の世界から抜け出せないままに大概の人が死んでゆく。まさに「水槽の脳」のごとく、我々は妄想で一生を終えるのだ。
一方で、動物は現実逃避をしない。そんなことをするのは人間だけである。
野性動物のようなシンプルな思考で生きていれば、人間だって簡単に幸せになれるだろうにと思うのだけれど、どうしてそれができないのか。なぜ人間は妄想がやめられないのか。
先日テレビで観たけれど、生き物の本体のような部分があるとすれば、それは「脳」または「腸」であるという。
多くの生き物が脳に主導権を握らせて生きているのだろうと思うが、おそらく人間以外の生き物は脳がそれほど発達していないために、腹が減ったとか腹の調子が良くないとか、腸からの影響を受ける部分が人間より大きいのではないだろうか。
腸は暴走しない。体を生かすために常に節制を心掛ける賢い臓器である。くらべて脳は刺激を求めて止まず、人間は「生き甲斐」の名のもとに高度ぶって、生命活動以外にも余計なことをあれやこれやと考えるが、結局、脳に支配され欲望に振り回されるばっかりで、さっぱり幸せになれない。
この先、人間はどちらへ進化してゆくのか。我々はやはり「水槽の脳」なのか。それとも、あれこれ悪いことばかり企む「脳」などにはさっさと見切りをつけて、健康な「腸」さえあれば幸せに生きていける時代がやって来はしないか。そのときには我々の体はおそらく、全体がほぼ腸である「イモ虫」のような形に近付くだろう。ーーぞっとする?
イモ虫と人間と、どちらがおぞましい生き物であるか、価値観はそれぞれだ。
けれども私は思う。もしかしたらイモ虫は、人間が到達したことのない、想像も及ばないほどの幸福感を、毎日、存分に味わっているのかも知れないのだと。
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