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言葉について その2 -穂村弘、千種創一の短歌を読む-


※これは以前書いたやつの続きです。


以前、言葉の持つ属性とか言葉同士の相性について書いた。
今回はそれを踏まえて、短歌に含まれる言葉の相性を見ていけたらと思う。
ということで、穂村弘と千種創一の短歌の結び目を解いていく。
(あくまで自分の読解として、つまり価値観の押し付けになりますと前置きした上で。それと最後の文、のが多いな。)


一首評×6

生まれたてのミルクの膜に祝福の砂糖を 弱い奴は悪い奴

シンジケート / 穂村弘

「生まれたて」、「ミルクの膜」、「祝福」、「砂糖」は全部白い。そして「弱い奴」もイメージとして白を放つ。全部白い理由は、最後の最後に強調させたい「悪い奴」の属性がdark、つまり黒いからだ。悪い奴が際立つ文字列になっている(センスで並べてると思うが)。「生まれたて〜砂糖を」で白が助走していき、「弱い奴」でさらに白が踏み込まれて強まっているから、「悪い奴」の黒さが際立つ。無意識に明順応させられていて「悪い奴」の黒さが強調される。


死のうかなと思いながらシーボルトの結婚式の写真みている 

シンジケート / 穂村弘

死のうかな、という生死に対する無味乾燥感。そこには彩りのないモノトーンな世界の捉え方がある。
生死=白黒。
"シーボルトの結婚式の写真"も白黒だ。当時の写真は白黒写真だから。さらに結婚式の写真なわけだから、新婦の白いドレスと新郎の黒いスーツが写っているはず。"シーボルトの結婚式の写真"は絶対的な白黒で、そこから主体は絶対的な生死の存在を想起する。このような精神回路を経ているはずだ。


バタフライ・ドルフィン・キックで切ってゆく水と光のバウムクーヘン

シンジケート / 穂村弘

バタフライ・ドルフィン・キックによって波打つ弧、またはイルカの背中の弧、これらの形状とリンクするバウムクーヘンの弧。ここにくる言葉は絶対にバウムクーヘンでなければならない。形状が共鳴するから。
さらに、光。
例えば、真っ暗な部屋にバウムクーヘンを置いた時、実際はバウムクーヘンがどこにあるのか見えない。けれど真っ暗な部屋に置かれたバウムクーヘンを頭でイメージしてみたらどうか。
バウムクーヘンは光っているはずだ。そこだけ灯っている。バウムクーヘンは光だ。


夏の夜の底だね、ここは、鉄柵を指でしゃららと鳴らしつつゆく

千夜曳獏 / 千種創一

一読しただけでイメージが広がる。「夏の夜の底だね、ここは」と言っているのは、刹那的な美しさと不変の無邪気さを併せ持つ天使のような女性と自分は想像した。夏の夜の闇に消えてしまいそうなくらい繊細な光を放ってて、だけど気丈でおてんばな女性が頭の中に浮かんだ。真っ暗な夜の底で彼女は"鉄柵"に触れる。"しゃらら"と。
ここの"鉄柵"を手摺りとか柵とかに置き換えることはできない。"鉄柵"でなければならない。"鉄柵"の持つ黒色のイメージ。黒い鉄の質感。読み手の感覚がここで暗順応することでその後ろにくる平仮名表記の"しゃらら"が光を放つ。指の先になんだか光が見える。鉄柵が指先の触れた部分だけ順に光っていくように感じる。
"しゃらら"に関しても、他の音に置き換えることはできないと思っていて、例えば"じゃらら"にすれば音に濁りが出てしまうから、純正なる光の白さは演出されない。彼女の指先が夜の底の闇を光色に塗り替えていく。"しゃらら"だからこの短歌は美しい。
宮崎アニメのナウシカでは、爆発のシーンを際立たせるために、爆発の直前の1フレームに黒コマを挿入している。暗順応させて爆発の光をより眩しく感じさせるわけだが、これは文字でもできると思っている。


このアカウントは存在しません 桃は剥くとしばらく手から香るから好き

千夜曳獏 / 千種創一

主体は、何かの拍子に過去を振り返りたくなる。過去の喪失によってできたかさぶたに触れたくなって、昔の恋人かな、検索してみたら、もうそのアカウントは存在しなくなっていた。という解釈をした。「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」と告げられた際に感じるのと同じ侘しさ。そういうマイナスな余韻が漂う。
一方で、桃を剥いたら手に香りが残っているという。それが好きだと言ってるわけだから、こちらの方は負ではない余韻。
どちらも余韻だけれど、違う種類の余韻。
似て非なり。
なんかずっと色味の話ばっかりしてしまうけれど、"アカウント"というのは非常に無機質な言葉で、自分的には"白"い。伝わるのかなぁこれ。同じく桃も白っぽいんだけど、アカウントの白さ(物質として全く混じり気のない白さ/RGBカラー値が255, 255, 255)に比べると、桃の白さは少し黄色味がかっている。
どちらも白だけれど、違う種類の白。
似て非なり。
桃の黄色味がかった白さがあるから、アカウントの白さが際立っていて、「このアカウントは存在しません」による衝撃がしっかりと静かな重みを伴って伝わってくる。
逆にアカウントの白さによって「桃は剥くとしばらく手から香るから好き」に輪郭線が見える。


ダム底に村が沈んでいくような僕の願いはなんでしたっけ

千夜曳獏 / 千種創一

"願い"は星空に浮遊していて、それがダム底という奈落の淵に沈み込んでいく。そういう様子を思い浮かべた。星の位置からダム底へというz軸方向の途方もない距離感。自分でも忘れてしまうような、漠然とした"願い"。ふわふわ浮遊している"願い"がゆっくりと歳月をかけて沈み落ちていく。まるで"村"みたいな重さがある。ラピュタみたいに根の垂れ下がったどデカい"村"みたいな"願い"が落ちていく。"願い"なんてものは実に抽象的なのだろうし、そんな願いの無駄な巨大さを感じる。








言葉に対する若干のフェチシズムはある。
これは極端な表現だが、何か(分かりやすい例だと蝶とか)をひたすら収集して標本にして美しい美しいと愛で続けて一日を終える偏狂者の"言葉"バージョンみたいなもので、
大学の翻訳の授業で、こっちの訳語の方が文字にしたときに美しいだろってムカつくみたいなことが時折あった(これは美しいものを美しいと評定する権力性、暴力性でしかない)。例えば、王の外面を説明する際に単に鼻と言い表すのではなく、鼻梁とした方が王の気高さと鼻の高さがマッチするし、権威的だろみたいな。意味としての適切性に加えて文字に起こした時の美しさや調和にも固執しているみたいな。けどこの小発作的な感覚が少なからず必要であることを信じていて、大事に保っておきたいから文字に起こした。

もちろんこれは短歌の一側面でしかなく、殊に連作においてはさほど重要ではない(言葉の属性以外で演出することが求められる)わけだから、あらゆる評価軸、他の全部についてちゃんと思考していきたい。

わけわからん文章を読んでくれた人、ありがとう。




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