(改訂2024年9月) 【関西オーケストラ演奏会事情〜20世紀末から21世紀初頭まで】第0回 その2 《忘れられた作曲家・大澤壽人〜モダニストの限界(文芸同人誌「関西文学」より転載)》
(改訂2024年9月) 【関西オーケストラ演奏会事情〜20世紀末から21世紀初頭まで】
第0回 その2
《忘れられた作曲家・大澤壽人〜モダニストの限界(文芸同人誌「関西文学」より転載)》
※写真は土居豊撮影
1 大澤壽人の交響作品
2002年に、故・芥川也寸志の志を継ぐべく結成されたオーケストラ・ニッポニカは、音楽監督の本名徹次の意欲的なチャレンジとして、現代の日本人による交響作品を紹介するプログラミングで注目を集めている。2006年3月、リフレッシュ工事の済んだばかりの大阪・いずみホールに、『昭和9年の交響曲シリーズ』と銘打って、大澤壽人(おおざわ ひさと)の交響作品を集めた演奏会が行われた。
まず、忘れられた作曲家というべき大澤壽人について、いささかの紹介をしたい。20世紀初期にヨーロッパで高く評価された作曲家・演奏家といえば、貴志康一(きし こういち)の名が浮かぶだろう。こちらも再評価の途中なのだが、同じく神戸出身で、1930年代のパリで自作の交響曲を指揮して絶賛されたのが大澤壽人である。
10代でアメリカに留学し、名門ボストン大学とニュー・イングランド音楽院で学位をとっている。日本人として初めてボストン交響楽団を指揮して自作を演奏したというあたり、長くボストン響を率いた世界的指揮者・小澤征爾の大先輩といえるだろう。その後、フランスに渡り、パリのエコール・ノルマルでナディア・ブーランジェに作曲を学んだのは、当時の最高の作曲技法を学んだといってよい。フランス近代音楽を代表する一人だったデュカスにも教えを受け、オネゲルに作品を絶賛された。ルーセルやイベールとも交流したという。
パリでの活躍ぶりは華々しく、自作の交響曲やラヴェル、ベルリオーズの作品を、コンセール・パドゥルー管弦楽団のコンサートで指揮して高い評価を得ている。帰国後は、東京で新交響楽団(現・N響)、大阪で宝塚交響楽団を指揮して自作を次々と演奏していった。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったのだが、第2次大戦をはさんで、戦後は多忙な仕事に追われ、46歳の若さで病没した。その後、長く忘れられることとなったのである。
今回の演奏会では、大澤の作品から、1934年にパリで作曲された『交響曲第2番』と、『ピアノ協奏曲第2番』『ソプラノとオーケストラのための「さくらの声」』を取り上げている。
2 大澤壽人とその世界
関東が拠点のオーケストラ・ニッポニカに対抗するかのように、大澤の地元である兵庫県立芸術文化センターの管弦楽団が、芸術監督の佐渡裕の指揮で大澤作品を取り上げている。関連企画としても、同センター小ホールで『大澤壽人とその世界』と題して、二日間にわたり室内楽作品と歌曲を取り上げている。
特に、ピアノの藤井由美とマイハート弦楽四重奏団による『ピアノ三重奏曲』『ピアノ五重奏曲』は、おそらく日本初演である。「おそらく」というのは、演奏記録がないからわからないということらしい。ますます幻の作曲家らしいではないか。
さて今回私が聴いたのは、オーケストラ・ニッポニカの演奏会と『大澤壽人とその世界』の室内楽演奏会である。その印象から少し述べる。
初めて聴いた印象は、和洋折衷の近代日本の都市をみるようだった。歴史の本に載っている昔の日本の都市を写したセピア色の写真の中の雑踏の雰囲気。
大澤の交響作品は、文字通り近代日本を体現したものである。明治維新以後急速に吸収されてきた洋楽が、大澤の生まれ育った大正期の阪神間に根付きつつあった。天から舞い降りたような一人の優れた才能は、20世紀初めの30年そこそこで、西洋音楽の古典から近代の最先端の音楽へと駆け抜けた。駆け足で全てを吸収し、習ったことのありったけを、おもちゃ箱をぶちまけるように作品にちりばめた。和魂洋才の申し子といえる。
だが、その反面、厳しい聴き方をすれば、自らの才におぼれているようにも感じられてしまうのだ。
楽曲が技巧的すぎて、逆に音楽の根本の魂が感じられない。まるで音楽理論の実例集、あるいは教科書のようで、精神的な空虚さが聴きとれてしまう。
結局のところ音楽作品の価値は、作曲家自身の精神性が問われる。特に、技術が極限に達しようとしている20世紀の現代音楽においては、なおさら内面的な充実が求められる。
3 藤田嗣治と比べて
ここで並べて考えたいのは、今でもフランスやヨーロッパで最もよく知られ、愛されている日本人の一人である、画家の故・藤田嗣治である。大澤と藤田の間に、同時代のパリで交友があったかどうか定かではない。だがジャンルは違えど、どちらもフランスで大いに愛され活躍した点と、故国日本であまり高い評価を得られなかった点、そして第2次大戦の影響で欧州での活動をあきらめざるを得なかった点でも共通している。共に同じ時代の荒波に翻弄され、活躍の場を一度失ったアーティストなのだ。
しかし、その後の運命は大きく異なる。藤田が戦後、追われるように日本を去り、欧州でコスモポリタンとして生涯を送ったのに対し、大澤は戦後の日本の音楽界で足場を築くために地元の関西で無理を重ね、若くして過労でこの世を去った。
もし大澤が再び欧州で活動を再開していたら、あるいは東京で活躍の場を得て日本の楽壇をリードする立場に立っていたら、と想像すると、その若すぎる死が惜しまれる。だがあるいは、戦後の音楽の先鋭化の中で、近代音楽の亜流として無視されていった可能性だってある。戦前に学んだ近代フランス音楽を20世紀の前衛的な現代音楽として発展させえたか否か?
阪神間が生んだ稀有の才能である大澤壽人の作品を聴くとき、日本発のコスモポリタンな芸術の響きを楽しむことができるのは間違いない。大澤だけでなく、20世紀初めの日本が生んだ奇跡ともいうべき芸術家たちを、戦後のわれわれは知らなさ過ぎる。世界のモダニストの最前衛というべき芸術家たちが、日本にいたのだ。
川端康成が『水晶幻想』で見事に生かした「意識の流れ」の手法を例にとっても、西洋文学の最先端をリアルタイムで追随していた。第1次大戦後の日本が5大国の仲間入りを果たしたことからくる、経済力のバックボーンがあった。1930年代の欧州、特にドイツでは敗戦によるマルクの暴落で、円がまがりなりにも強い通貨の一つだったこともある。ヨーロッパを中心に活躍した30年代の日本モダニストたちの土壌として、同時期の阪神間におけるプチ・ブル文化が大きいのである。そこから、日本発のコスモポリタンな芸術が生まれたといえよう。
阪神間に長く住んだ谷崎潤一郎の文学は、今もヨーロッパで愛され続けている。大澤の室内楽を聴きながら谷崎の『卍』でも読めば、20世紀初頭の濃厚なデカダンスの世界に浸れるだろう。
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第0回 その3 《「アマチュア音楽の魅力〜芦屋交響楽団」&「文化行政に注文〜びわ湖ホールと大阪センチュリー交響楽団」》
https://note.com/doiyutaka/n/n4a1d1a323970
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国内オケの演奏会評、関西を中心とした演奏会事情などをまとめた。 21世紀前半の今、日本での、それも関西という地方都市を中心としたクラシック…
土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/