「ニーズ」ではなく「ライツ」ベースでありたい。
ふりかると学生時代から約8年に渡って、「若者の参加」に取り組んできました。2−3年前からは、ドイツを訪問したことをきっかけに「子どもの遊び」にテーマが広がり、いまは「市民がつくる公共」に関心があります。
決して関心が移り変わったわけではなく、根にあるものは一緒で、そこから様々な幹そして葉へと関心が広がっています。最近そんなことを強く実感する出来事がありました。
とあるまちで子どもの遊び場を広げていく活動を支援していて、先月その話し合いの場が持たれました。詳しいことは伏せますが、話し合いの場にはいろんな立場の人が参加されていて、ぼくはオンラインで参加していたのです。
「ほんとうにうちのまちにニーズはあるんだろうか?」
「子どものニーズを聞かないといけない」
話し合いの場では、「ニーズ」という言葉が何度も出てきて、子どもの遊びは本当に必要なのか?と問われる場面がありました。この「ニーズ」の言葉に、ぼくのセンサーがピクッと反応したのか、
「ニーズと仰いますけど、子どもの遊びについて、ぼくはニーズではなくライツとして考えなければいけないと考えています」
と、言葉を発していました。いま振り返ると、自分でもびっくりの発言だったのですが、ここは自分にとって譲れないことだったんだなぁと感じたりもしました。
決して「ニーズ」という言葉を使った方を咎めたいわけではありません。その方としては、「現状の住民ニーズに合わせた遊び場をつくらないといけない」という趣旨の発言だったと十分に理解しています。
でも、ぼくは「ニーズ」と聞いたときに、「じゃあニーズがなかったらやらないの?」と考えたのです。市場原理で考えれば、需要(ニーズ)と供給がマッチすることが重要で、需要がなかったら市場は成立しません。
ここで考えなければいけないのは、市民活動やまちづくり活動、そして行政などの公的サービスなどのセクターは、市場原理と同じ原理なのか?ということです。
国際協力の業界では、「ライツ・ベースド・アプローチ」と「ニーズ・ベースド・アプローチ」は明確に分けられ、人権に基づくアプローチの重要性が掲げられています。
ライツ・ベースド・アプローチの重要な点は、権利の視点からモノゴトを根本的に解決していく試みであることです。
例えば、目の前に飢餓の子どもがいて「ご飯が食べたい」と言っていたとします。そこに「ご飯が食べたい」というニーズがあるから、食料を調達してのは、ニーズ・ベースド・アプローチです。
しかし、これでは根本的な解決に繋がりません。なぜなら彼/彼女の最低限のご飯を食べる権利が奪われている現状自体を解決するために、構造的な問題解決に取り組む必要があるからです。
ニーズで考えると、対症療法のようなその場しのぎの取り組みになりやすく、極論ニーズがなければやらないという話になったりもします。そもそも世の中には、ニーズとして外には出ていないけど、権利侵害を受けている、受けていると知らないでいるものは多くあると考えています。
さきほどの子どもの遊び場の話であれば、仮に公園がひとつもないまちに子どもが住んでいたら、隣町で「公園」の存在を知るまでは、「うちのまちに公園がない!」と気づくことはできません。
だから「ニーズ」ではなく「ライツ」、権利の視点で社会のモノゴトを捉えていきたいですし、これまでの活動のなかでその視点が自分に染みついていることを大きく実感する出来事でした。