長夜の長兵衛 (9) 初虹 〈清明〉
橋を渡ると、目当ての屋敷は直きだ。
いそいそと川べりをいく面々。長兵衛、大家の金兵衛とその弟子の銀兵衛は、安兵衛に招きを受けた。菓子屋の大旦那、今は楽隠居の身。
空は一面の桜模様。雀がつついた花がふう、と足下へ。それを踏まぬよう、長兵衛は足を運ぶ。
茶室へ通されるまでの間も、雲のように漂う香りに、三人の顔は自然とほころぶ。
安兵衛自らが、盆を持って入ってくる。本日は、堅苦しいことは抜きにいたしましょう。さ、足を楽になされて。お薄もよいが、桜餅には煎茶が一番と、こう思うております。
塩漬けの葉、桜色をした薄皮。その向こうにこし餡。
まこと、これは煎茶がよろしいですなあ。金兵衛は感に耐えぬように言う。
そしてもう一品。長兵衛はこれを知らぬ。薄紅色のおはぎであろうか、桜の葉に包まれて。
道明寺をいただけるとは思いませなんだ。銀兵衛はうっすらと涙を浮かべておる。
ようご存知ですな。こちらでは桜餅といえば長命寺ですが。
くにでは、道明寺でございました。こちらへ来てからというもの、寂しく思っておったのです。
さようでしたか。実はわたしの生まれも道明寺なのです。桜餅の季節になるとこう、胸の奥がぎゅっとなりましてね。お内儀が煎茶を注ぎながら微笑む。
長命寺は息子の店のものを持ってまいりましたが、道明寺の方は、今朝方から、うちのひとがこさえたんでございます。
ああ道理で、お屋敷中いい匂いなのですなあ。
金兵衛が相槌をうつと、安兵衛は照れたように白くなった頭に手をやる。
長命寺なら要らぬ、と桜餅を食わずにおった頃もあったのです。銀兵衛がぽつ、ぽつと語る。でもようようみたら、これも春の訪いを味わう、まことに美味いものでした。道明寺道明寺、と頑なに願い手を伸ばしていた折には、逃げていくばかりでしたのに。心を広げておりましたら、あちらから来てくれた。
安兵衛が頷くと、お内儀が道明寺をもう一つ銀兵衛の前に置いた。
おや、降ってきたね。
花散らしの雨でございますね。と、お内儀。
それもまたありなん。
さっと通っただけで空には光が戻ってくる。
あら。
これはこれは、初虹ではないかね。
こうやって、たれかが虹を持ってきてくださるのだ。
あのあたりが桜餅の色でございますね、と長兵衛は大きく手を広げた。
<了>
イラスト illust AC No.22489085
道明寺の歴史は、上記のように明治時代からとするもの、また江戸時代からあるとした記事もあります。
とはいえ、このお話がいつの時代のものなのか、わたくしにもいまだ良くわからないのでございます。
本作からのイメージで、ジユンペイさんに作っていただきました。とてもかっこいい曲です。いい意味で、予想を裏切ってきます。ぜひ、聴きながらもう一読くださいませ。
こんなB side storyはいかがでしょう。
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。