オーディブル記録⑨『目的への抵抗』
コロナ禍で課せられた移動制限。それに対して「緊急事態であることを理由に人々の自由を奪うような法案が通されることに対して、鈍感であってはいけない」というような警鐘をならし、炎上したアベンガンという哲学者がいた。
そんな話から思考は発展し、「何かの目的をたてて、合目的的に自分を統制する」というあり方について疑問符が突きつけられる。それでは自分が生きる日々が、その目的の達成に向けた単なる「手段」に堕してしまう。本当に生きていると言えるのか。
たとえ話として食事が出てくる。食事の第一の目的は生存ということになる。だったらカロリーメイトだけ食べていても、目的には一応応えられる。でも、それでいいのかという話だ。実際には、私たちはそのような「手段としての食事」を物足りなく感じるし、耐えられない人がほとんどだろう。
では、どうやって「手段」を超えればよいか。そこには「浪費」と「消費」あるのだという。著者が引用する「消費論」という書籍によると、「浪費」はモノを対象としている。食事の生存という目的に抗い、食品を浪費する。カロリーメイトでも理論上は間に合うところ、自分が食べたいものを追求するとか、すこし贅沢をしてみるとか。それが浪費だ。
一方で「消費」は価値観や事柄が対象になるのだという。例えば、話題の飲食店にいってスマホで写真をとってSNSにアップするというような営みは、食品を食べる事よりも、その店に行ったという事実自体が重要なのであり、それは消費に該当する。
で、消費には浪費と違って終わりがないのだという。飲食店の例えでいえば、必要最低限を超えた食事を楽しむ「浪費」については満腹になれば終わりだ。一方で流行点なんて次々に変わっていくものである。流行りの店に行くという消費には、終わりがない。(前者だって同じく時系列を広くとれば終わりが無いということになりはしないか。ちょっと消費と浪費のくだりがしっくりこない。)
このような終わりなき消費というのは、20世紀の大量生産・大量消費社会の要請もあって喚起されてきたものなのではないか。そうではなくて、目的を満たす過程での「遊び」の重要性を問い直すべきではないか。
…概ねこんな論旨だったと思う。
聞き終わって、色々なことを考えた。目的が明示されると、ついつい「目的にむけて合理的なルートを進めるマン」になってしまいがちな自分にとっては、確かになぁと思う部分はある。
一方で、目的への最も合理的な手段から逸脱した「遊び」や「贅沢」は大事だよと言われると、まあ大事なんだけど…
ただ、そういった「遊び」や「贅沢」には人生を良くするものも、そうでないものも混ざっていて、混沌としているようなイメージがある。
次の疑問として、目的からの善き逸脱と、悪しき逸脱があるのではないか、それを分ける物は何か。そんなことにかなり関心がむいている。
これはKurzgesagtが喫煙についての動画を出したことと関係していて、上手く関係づけて論じられそうな気もする。でもうまくまとめきれない気もする。
まあとにかく、本書についてはここまで。