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理系的ニヒリズムへの抗い方

子どもの頃から「自分はいずれ死ぬ」ということについてよく考えていた。幼稚園時代、考えすぎて泣き出したこともあった。「どうして泣いているの?」と母親に聞かれたが、子ども心に「これは禁断の問いなのだ」という考えがあったため、とっさに「アニメの続きがみたくて」と主張してごまかした。

中学生ぐらいになると、「まあ死ぬにしても先の話だから」「自分が老人になった頃には死への恐怖は薄れているし」といった理屈をつけられるようになった。夢中になれることも大量にあり、ひとまず忘れることができた。

大学入学にともない、一人暮らしを始めたあたりから、一気に事情が深刻になってきた。自然科学を学んでいくと、生きることを虚しく感じさせるような知識がガンガン入ってくるのだ。

加えて、ものを考える時間は腐るほどあるし、大学受験というわかりやすい目標も失われたばかり。情熱を傾ける先がまだ見つかっておらず、自然と生きることの虚しさについて延々と考えるようになってしまった。

虚しさ要素① 宇宙ヤバイ

宇宙ヤバイ。「無は不安定」とかいう謎理論でビッグバンが生じ、偶然できたものらしい。神などいなかった。

宇宙はデカすぎる。宇宙のサイズを海とするなら地球は砂1粒程度なんじゃないかと思うし、その地球においてちっぽけな存在である人間とか、ミジンコやミドリムシと大差ないのでは。

宇宙は時間のスケールも違う。すでに138億年が経過しているらしい。ここ1万年ぐらいで人類が登場してワイワイやってるけど大した長さじゃないし、その中の長くて100年程度に自分がお邪魔するにすぎない。

自分という存在が空間的にも時間的にも小さすぎる。ものすごく頑張って人間社会の中で何かを成し遂げたとして、宇宙目線でみてそれがなんだというのだ。虚しい。

虚しさ要素② 生物の機械仕掛け感

遺伝子発現やら発生やらを学んでいくと、どうしても人間を含めた生物全般が機械仕掛けに感じられてくる。遺伝子の情報をもとにタンパク質を作り、それをもとに体を設計したり、体内の化学反応をコントロールしたりする。そういう高度なマシンだ。

マシンの動力源は炭水化物、タンパク質、脂質であり、これは植物が作るか、植物を食べた動物が蓄えている。根源は植物だ。では植物がなぜエネルギーを蓄えているか。これは光合成によって太陽光のエネルギーを捕まえているからだ。

「太陽の恵み」と言えばこの議論の無機質さからぬけだせるかもしれない。しかし、なぜ太陽が莫大なエネルギーを四六時中放ち続けているかといえば、核融合を行っているからだ。

そう、人間は核融合のエネルギーを遠回しに受け取って自分の動力としているのだ。アトムやドラえもんと似たようなものではないか。

こういった理解が進むにつれ、人間という存在についてのロマンがどんどん剥ぎ取られていった。人間なんて所詮、水とタンパク質と脂質の塊ではないか。生きることに意味なんてない。そんな思考回路にどんどん染まっていった。

眠れなくなった

こんなことばかり考えているうちに睡眠が不規則になり、夜の街を自転車でウロウロする不審者になってしまった。あの頃に医者にかかってたら何かしらの診断を受けていたかもしれない。

大学の同期にも似たような考えを持つ人間はチラホラいて
「夜空とかみてると虚しくなる」
「生きる意味なんてないのはもうわかっていて、目先の楽しいイベントを楽しみにしのいでいくだけ」
など、それぞれの言葉で虚無感を表現していた。理系の大学1年生にありがちな症状らしい(※1)。

解決しようと哲学に手を出した

これはイカン、この虚無感に決着をつけないと一生の問題になっちゃうし、いずれ心折れる瞬間がやってくるだろう。なんとかせねば。

とりあえず哲学の本を読んでみることにした。しかし、文系の内容を苦手としていた自分には、哲学の原著はチンプンカンプンだった。それならばと哲学のマンガを買った(※2)。そのマンガが大当たりだった。作者が哲学科卒の漫画家ということもあり、手軽に勉強できる短編集でありながら、量産型の学習漫画とは一線を画していたのだ。読み進めていく中で、ハッとさせられるやり取りがあった。

「無知のヴェール」という言葉がある。ある状況において何が正義かを判断するにあたり、自分自身の利害や価値観などから離れ、原初状態に立って判断する必要があるというような内容だ。

その原初状態に立つということに対して、以下のような反論がなされた

「いいか?森の中で産み落とされた野生児とかでない限り、人は皆現実には生まれた時点で何らかの共同体に参加しているのだよ。ところが君の「無知のヴェール」は共同体から切り離された無垢の架空存在を作り出してしまう」

このセリフはごく小さなコマの中のものではあるが、自分はここにくぎ付けになった。理系モードになって見えなくなっていた部分がわかった気がした。

考えたこと

「生きる意味なんてない」というのは文章として不完全だ。主語がない。
人間には生きる意味なんてない」あるいは「自分には生きる意味なんてない」と表現すべきだろう。

より切実な、「自分には」の方で考えてみよう。自分とは何だろうか?この定義をしないと、命題の真偽を検証できない。ここで自然科学の洗礼を受けた直後だと、自分について以下のように考えがちだ。

・水とタンパク質と脂質でほとんど構成されている生物
・宇宙の片隅の辺鄙な惑星に長くて100年程度存在する生物
・太陽の核融合エネルギーを植物ごしに摂取して動く精妙な機械

冷静に考えると、自分という存在をこのように定義するのは、あまりにも視野がせまい。何しろ自分は「生まれながら共同体に属してしまっている存在」なのだから、「それを抜きに考えるのは架空にすぎない」のである。

だから、自然科学の目線だけでなく、人間社会における自分の位置づけも定義に含める必要がある。その観点から定義をしようとすると

・家族というコミュティに属している存在
・親しい友人が少数ながらいる存在
・大学生として成長を期待されている存在
・日本の市民として人類史の最前線に参加している存在

などが浮かび上がってくる。このことを加味するのであれば、「自分には生きる意味なんてない」という文章は全く説得力を持たなくなる。

自分が生きていることは家族や友人にとって無意味ではないだろう。自分が死ねば深く悲しむし、いいことがあれば大いに喜んでくれるはずだ。それに、自分は人類史の最前線にいるというのも考えようによってはやりがいのあることだ。なんだかんだ言って、これまでの人類史の積み重ねで、世界はより便利で快適で、理不尽の少ない場所になってきている(※3)。それでもまだ次の課題が残っていて、それを解決して次代にバトンを託すのが自分たちの世代の役割なのだ。

このような考えにたどり着いた時点で、ニヒリズムとお別れすることができた。文系の方々からしたら「何を当然のことを言っているのだ」と思われるだろうし、哲学を本気でやっている方々からみたら噴飯ものの論理展開かもしれない。それでもとにかく、この時を境に、自分がニヒリズムにうなされることはなくなったのである。

余談:楽観的虚無主義

3年ほど前から、kurzgesagtというyoutuberの英語動画に日本語字幕を付けていた(それに関する記事はこちら)。このチャンネルは宇宙物理に関するトピックが多く、今回書いたような理系的なニヒリズムを誘発する性質があった。

そのためか、あるときoptimistic nihilismという動画がアップされた。これは彼らなりのニヒリズムへの向き合い方を解説する動画で、チャンネル屈指の名作だと思う。

optimistic nihilismは「楽観的虚無主義」と訳される(※4)。文字通り、ニヒリズム(虚無主義)に対する楽観的なスタンスの取り方だ。動画字幕から引用しよう。

「あなたの人生は一度きりで、それは恐ろしいことで、でもあなたを自由にもしてくれる。もし宇宙が熱死で終了すれば、あなたがこれまで苦しんできた全ての屈辱は忘れ去られる。あなたのしでかした全てのミスは、最終的に問題なしということになる。あなたのしでかした悪事は全て無効だ。
私たちの人生が私たちの経験しうることの全てだとするなら、重要なのはそこだけだ。もしも宇宙が何の教義も持たないのであれば、私たちが決定したことだけが唯一の教義だ。もしも宇宙が何の目的も持っていないのであれば、私たちがその目的を規定することになる。」

このような考え方も好きだし、その後の議論は自分の考えと似た方向に展開されているような気がする。ただし、この立場は自分を自然科学の目線だけから見ている感が強く、「宇宙が終わるなら何をしてもよい」というような解釈だけが広まると、実害もありそうである。



※1 今年は遠隔授業でさらに孤独だったはずだが、大丈夫だろうか。

※2 須賀原洋行「新釈 うああ哲学辞典 上・下巻」

※3 このあたりは『暴力の人類史』や『FUCTFULNESS』が根拠であり、当時思っていたことではないのだが。

※4 この動画に字幕を付ける際、「楽観的悲観主義」と訳したが、訳をチェックしてくれた他の人が修正してくれた。