書評:『夢をかなえるゾウ0』
言わずと知れた自己啓発本のベストセラー、『夢をかなえるゾウ』の最新作。セブンイレブンの書棚で発見して即買いした。
本作への雑感と、本作のテーマについて色々と考えたことを書いておこう。でもまずは、シリーズ自体の紹介から。
夢をかなえるゾウシリーズ
このシリーズには安定した基本骨格がある。以下のような感じだ。
さらに、シリーズごとに具体的なテーマがあり、2作目からはサブキャラを添えて肉付けされている。
このようなフォーマットを通じ、読者は「僕」とシンクロしながら変わっていく。そんなシリーズとなっている。
今回のテーマは「夢」
さて、ゼロと銘打った本作のテーマ、それはズバリ「夢」である。
冒頭、ガネーシャは口をアングリ開けて驚いている。冴えない新入社員の「僕」に、夢をかなえるための指導をしてやろうと思ったら、「夢はありません。」「夢って必要なものでしょうか?」と返されてしまったのだ。
これまでは「夢があるけど自己啓発本を読んで満足するだけ」とか、「夢へと踏み出せない」とか、そんなところがスタート地点だった。それが、夢自体が存在しないなんて…
サトリ世代に向けて
これは、いわゆるサトリ世代を意識した作品なのだろう。彼らは大きな夢を追うことに必要性を感じない。自己実現とかどうでもいいから、大きな失敗なく程々の人生を送りたい。若くしてそんな境地に至っているのだ。
そんな「僕」に対し、ガネーシャはまず「夢」を持った状態の強みを体験させることから始める。これまでの作品よりも手前からスタートするのだ。
暖簾に腕押しのサトリ世代をどうやって揺り動かし、夢をもつ生き方へといざなうか。本作の背景にはそんなチャレンジがあったのではないだろうか。
「本物の夢」とは
本作で「僕」は、ガネーシャの課題を通じ、様々なことを学んでいく。
一つ一つは、どこかで聞いたような内容でもある。でもやっぱり、自分の夢を見つけ、目指し始めようという人間には必要なことだろう。
「夢を目指す過程に失敗はつきものだが~」という部分は、サトリ世代を強く意識したものだろう。この世代は失敗したり傷ついたりすることを強く嫌うため、こういったフォローが必要だったのではないか。
特によかったのはラスト、本物の夢についての総括である。
このくだりがあることで、本書にはグッと深みが出ているように思う。
夢を持ち、夢を追うことが推奨されるのは、目指すアウトプットが重要だからではない。夢からエネルギーを得て、日々の活動に意味付けを得ながら生きていくこと自体が重要なのだ。そうやって生きていくなら、いつか何らかの形で、何かを成し遂げることができる。そういう意味だろう。
単純化された「夢」啓発の弊害について
自分が小学生のとき、授業の中で夢を書かされたことがある。ポワーっとした子どもだったので、具体的な夢は何もなく、とりあえず「金持ち」と書いて出してしまった。別に金銭的欲求が強かったわけでもない。それしか思いつかなかったのだ。
こういった「夢」啓発の問題点は色々とありそうだ。
そもそも世間を知らず、教養も無い段階でひねり出した程度の夢というのはとても脆いものだろう。「比較的マシに見えたものを挙げたに過ぎず、生きる意味やエネルギーを与えるものから程遠い」という感触を持つ人も多いだろう。一方、啓発に乗せられて「達成しなくてはならない」という脅迫観念を持ってしまう人もいるかもしれない。
それに、上手に夢を設定しないと「手段の目的化」が起こりそうだ。例えば「野球を通じて人々をワクワクさせたい。プロ野球選手になってみせる」という考えの子どもがいたとする。とても立派なことだ。
この場合「野球を通じて人々をワクワクさせたい」ことが目的であり、「プロ野球選手になってみせる」の部分は手段である。しかし、世間的には後者を「夢」と呼ぶことが多いように見える。
プロ野球選手になってみせるという「手段」を「夢」と設定してしまうと、野球の試合で成果を残せないことは「夢の失敗」を意味するようになる。そして、実際にプロ野球選手になれる人なんて一握りなのだ。
一方、「野球を通じて人々をワクワクさせたい」という目的の方にフォーカスできていれば、プロ野球選手というルートが厳しくなってきたとき、スポーツライターとか、少年野球のコーチとか、次の実現方法を考えることができるだろう。
このように、世間的な「夢を持て、夢を追え」という啓発には、色々と危ういところがあるような気がしている。本書の中でも「単純化された夢モデルの弊害」を扱ってほしかったぐらいだ。
とはいえ、本書のレベルで夢というものを理解するなら、そういった弊害からもずいぶん自由になれるだろうなぁと思う。
物語としては
ここまで書いたように、本書で提示される「本物の夢」についての議論には、いい印象を持っている。だが物語としてみると、残念ながら面白くなかった。
まず、本シリーズのウリであるガネーシャとの掛け合いが楽しくなかった。ガネーシャのグダグダ感や自己愛の強さは、キャラクターとしての魅力につながっていたのだが、前作あたりからは面倒くささの方が上回っている印象がある。これはネタの枯渇なのか、こちらが「ハイハイ」というテンションで読み飛ばしてしまうからなのか。
そして何より、主人公のキャラクターが合わなかった。ガネーシャがハチャメチャ言っても、ガネーシャ信者としてのフォームを崩さないのだ。
ガネーシャはツッコミがあってこそ輝くキャラクターだろう。なのに主人公も、サブキャラのバクもガネーシャのご機嫌取りに必死すぎるのだ。さらに、ガネーシャとの別れが近いと知った時の拒否反応も過剰すぎる。それが気持ち悪いのだ。
初代の「僕」であれば、ガネーシャのノリに慣れるにつれ、手厳しいツッコミを浴びせるようになり、ビンタまでかましていた。あのぐらいの塩梅がちょうどいい。
まあ、今回の主人公がそんなキャラクターになっている理由はわかる。本書のターゲットがサトリ世代であり、その世代が共感できるようなキャラクターにする必要があったのだろう。
とはいえ、『夢をかなえるゾウ』シリーズの読み物としての魅力が、少しガタついているという印象を受けてしまったことは、なかなか残念だった。