練馬への怨念(矢作俊彦『マイク・ハマーへ伝言』レヴュー)
気の合った仲間たちと、常日頃から慣れ親しみ、あまりにも身近になり過ぎたがゆえに、一種の聖域と化した横浜のかけがえのない風景が練馬化するという由々しき事態を前にすると、元町・中華街をブイブイ言わせて闊歩する横浜ネイティブの「英二の頭は、ナパーム弾をくらったみたいに、ぼっと燃えあがる」。
矢作俊彦の出世作『マイク・ハマーへ伝言』の英二をはじめとする登場人物たちを律しているのは、思想的信条でも伝統への忠誠でもなく、あくまでも小生意気で差別的ですらある美学だ。この作品の冒頭は生粋の横浜っ子である克哉と翎の次のような会話から始まる。
彼らにとって行動の規範となるのは「映画」なのである。そして、実際のところ、本作『マイク・ハマーへ伝言』自体が、まるで往年の日活青春アクション映画を模倣するかのように新鮮な躍動感に満ち溢れている。なおかつ祭りの終わりを予感した者による最後の盛りあがりへの切ない期待がある。
冒頭の墓場の場面は、彼らの仲間であった二十歳そこそこの若さで事故死した松本茂樹の四十九日の会場の駐車場である。松本は、仲間たちの共有財産であるポルシェ911Sタルガを運転中、驚異のスペックを持つモンスター・パトカーとの逃走劇の果てに高速横羽線のフェンスを突き破って死亡したのだった。そして、松本の四十九日当日、「パーティー」と彼らが呼ぶところの復讐劇が計画され実行に移される。この作品は、この一日かぎりの出来事をジョージ・ルーカスの『アメリカン・グラフィティ』のように、複数の登場人物に焦点を合わせて彼らの行動を丁寧に追いながら、無邪気なパーティーの祭りの昂揚の高まりと予想外の結末を描き出す。
主要な登場人物は、英二と克哉と雅史と翎とマイク・ハマーの5人である。彼らが最後の祭りを演じる日付は、作品のほぼ真ん中で、克哉が長嶋茂雄の引退試合をテレビ中継で見る場面が出てくるので、1974年10月14日ということになる。作品内に長嶋の引退が描かれるのは、象徴的で、登場人物たちは一つの時代の終焉を感知しているし、作品自体はそれをはっきりと意識している。
ちなみに詩人の荒川洋治が詩集『水駅』を出すのが1975年で、その中の「楽章」という作品で、荒川は、「世代の興奮は去った。ランベルト正積方位図法のなかでわたしは感覚する。」という有名な詩句を書いた。荒川が意識していたのは全共闘による学生運動の衰退であったが、英二や翎たちは自動車産業や横浜を巡る風景の変化としてそれを感知しつつそれに苛立ちを覚える。彼らが企画するパーティーは、死んだ友人の弔い合戦であると同時に、トヨタに敗北を喫した日産の美学の最後の打ち上げ花火でもある。復讐劇の敵であるパトカーすらもが、日産の美学と哲学を謳いあげるための共同作業者として花を添える役割を振り当てられている。当日の夜、英二らが乗り込んだ3台の車と派手なカーチェイスを演じるパトカーは、「メイン・ゲスト」として畏敬の対象としてあり続ける。
じつはこのパトカーは、日産が10年がかりで開発したロータリーエンジンを搭載する予定だったシルビアが、オイルショックによる排ガス規制のあおりを食って販売ルートに乗らず、代わりにセドリックのボディを乗っけて覆面パトカーに無理やり変貌させられて警視庁につけとどけられた代物だったのである。3200CCのDOHCで300馬力というじゃじゃ馬パトカーに対して、英二は敵意よりも先に恋慕を感じてしまう。日産が開発したこの怪物パトカーは、英二にとって横浜の美学と通じるものとしてある。それに対してトヨタは、練馬であり、千葉県の浦安である。英二は熱くなって語る。
そしてまた、翎は、パーティーの直前の夜9時過ぎ、次のような感慨にとらわれる。
日産も横浜も変わってしまってきている。そこには日本の風景の変容が当然関わっているわけだし、そのようなものと適当な折り合いをつけることが、二十歳を過ぎた人間の振る舞いというものだろう。彼らは頭ではそのことを理解している。当初の約束では、あくまでも遊戯としてこの余興は完了するはずであった。余興といっても、克哉が乗るダッジ・チャージャー、翎が乗るキャディラック、そして英二が乗り込む(なぜか)血液輸送車によるカーチェイスは、なかなかの見もので、日本文学でこのようなカーチェイス・シーンを描いた例はほとんどないのではなかろうか。そして当然「DOHCの3・2リッター」エンジンの怪物パトカーも忘れてならない。これら四者による華麗なるパフォーマンスは、なにか大切なものを失い凡庸化した日本の風景への爽快な批評を演じているようだ。英二の愛車は「スカイライン2000GTB」だが、この名車が忘れ去られようとしていることに英二は悲しみを覚える。「もっと悲しいのは、年式が古くなったというのではなく、自動車そのものの発想が、こ奴と今の車ではまるで変わってしまったということだろう。ビートルがVWドイツ本社の生産ラインから消えたころ、自動車を見る世の中の目という奴が、違うものになりはじめたのだ」。
英二らのパフォーマンスは、終わりつつあるものの最後の打ち上げ花火である。それがほとんど無意味に近い軽やかな遊戯として演じられていることが素晴らしい。それは最良の意味での「粋」のレベルに達している。横浜の余裕ある消費者たち(英二らはほとんどが資産を持つ家の2世である)の優雅さは、なるほどいけ好かなさよりも、まず心地よさを感受してしまう。彼らの趣味の良い振る舞いに似て、首都高速での4台の車が演じるカーチェイスは、作品を軽やかな運動感で染め上げる。この透明な疾走感は、ちょっと例を見ない。これはあくまでもたとえの話だが、松本清張ではこの透明感は描けないだろうと思う。
けれども作品の最後で、作品は重苦しい空気を導入することになる。それは突然降りだした雨の液体に含まれる重苦しさでもあるが、もう一つは英二が愛着を抱く高スペックパトカーのナンバープレートを見た時に英二の心が濁ることによって生じた重苦しさでもある。英二が見たものは「練馬88」という文字だったのである。
ここから透明な疾走感は、重苦しい色調に変質して行き、事態は予定とは異なる展開を見せることになるが、その変調の様子は作品で確かめていただきたい。