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60年代は遠くになりにけり・村田沙耶香の『コンビニ人間』

 村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んで、「ああ、60年代は遠くになりにけり」と思わずにはいられなかった。われわれの生活を規定する構造および空間が、根本的な変容を蒙っていることを再確認したのである。

 平成文化人なら「スーパーフラット」と呼ぶ現象を、昭和の文化人上野昂志は、それを「奥行きのなさ」「闇の消滅」と、60年代文化論『肉体の時代』の中で名指した。上野の著書は、1980年から1985年かけて書かれたが、その末尾において上野は、「六〇年代が、さまざまな制度から肉体が意識的、無意識的にはぐれだした時代であったとすれば、八〇年代のいまは、そのはぐれた肉体を改めて囲い込む時代のなのだ」という言葉を書いている。60年代に存在した反制度的肉体が囲い込まれた先は、「コンビニエンスストア」に代表されるような資本主義のシステムだと言える。それはまた、「コンビニエンスストア」がそうであるように、「人工的な光」に満たされた空間であり、すべてが計算可能になった世界、いいかえれば「わかりやすさ」が覇権を握った世界でもある。だから上野は次のように書いた。

 これらのことは、この節の最初に書いたことに戻していえば、闇が追放されて、あらゆるものが人工の光に照らされ、管理されるようになったということである。また、背後とか裏とか奥といった、要するに表面との遠近でこれまで隠れていたものが、表層化すると同時に、操作の対象になったということでもある。

『肉体の時代』

 ここに描かれているのは、われわれの生活空間そのものであるが、このような空間は1950年代末に登場した、と上野は言う。

 これは、たんにあらゆるところで電燈が豊富に使われるようになったからということではなく、生活空間のあり方そのものの変化によってもたらされたのだ。たとえば、われわれの住居、かつては廊下の片隅だとか、階段の下だとかが闇の溜る場所としてあったわけだが、そういうものが、六〇年代以後の住居からは追放されていったのだ。一九五〇年代末に登場した団地の2DKというのが、住居の範型になることによって、無駄な空間をなくしていったからである。2DKの2が、3になり4になっても、またDKがLDKになっても、余剰な空間は削除するという基本姿勢が、個人の住居から闇をなくしていったのである。

『肉体の時代』

 団地の登場によって「無駄な空間」が消滅していったと上野は言う。そもそもおそらくは団地という建築物は、経済効率の要請から設計されたものであろうから、当然と言えば当然であると言える。「空間」というものは、多数派の論理によって、その性格が決定されてしまうものである(であるがゆえに自分たちの祖国を持たなかったユダヤ人たちは「時間」を棲みかとしなければならなかった)。高度成長期以降の日本において政治の言葉が削除され、社会主義体制崩壊以降の世界では、非経済的なものが空間から追放されていった。今や「生産性」が日本社会を制覇している。

 村田沙耶香の『コンビニ人間』は、空間を巡る笑えない喜劇あるいは泣けない悲劇だと言える。ここでいう「空間」は、むろんのこと、作品に描かれた生活空間とはいえるが、『コンビニ人間』の面白さは、それを言語によって構造化された「無意識」に焦点化して描いているところにある。

 精神分析医のジャック・ラカンは、人間の無意識を言語との関わりからとらえ、人間の無意識は他者の言葉によって構成されていることを見出した。無意識は通俗的なイメージが思い描くような混沌としたカオスのようなものではなくて、他者の語りおよび欲望によって構造化されている法体系のようなものとしてある。人間は構造の臣下であると、新宮一成は、ラカンとともに確認する。

 この規定的な構造を精神分析から照らし出すのが、ラカンによる「無意識は大文字の他者の語らいである」というテーゼである。私が私の精神であると思っているものの中に、他者たちの語らいが含まれている。無意識は他者たちの語らいが充満した場である。無意識は、他者について、他者の場で、他者たちが話している、その語らいのことである。

 それでは、他人たちが他人について話している、ふつうの社会生活の通りすがりの場面のいずれもが、私の無意識だと言ってよいのであろうか。ある意味ではその通りなのである。というのも、そこで話されている他者、語らいの標的になっている他者、それが私自身である時、あらゆる語らいが私の無意識となって、私の中に忍び込んでくるからである。

 私についての他者の語らいは、乳児期の状況に起源を持つものかも知れない。生れ落ちてすぐに、我々はそれが我々のことだと知らないまま、我々についての他者たちの語らいの中へ生まれ出る。  

「分裂病と他者の欲望」

 人間の無意識は、他者の語りが飛びかう空間であり、他者の言葉によって染め上げられる画布のようなものとみなされている。そこには、自らの言葉を主体的に語る自己はなく、他者の言葉によって構成された構造に従属せざるを得ない客体としての自己があるばかりだ。乳幼児は大人たちが発する言葉が渦巻く空間に無防備に曝される。文字通り「あらゆる語らいが私の無意識となって、私の中に忍び込んでくる」のである。こうして人間は、他者の言葉、つまりは多数派の論理を自覚することなく習得し、その論理の方向性と意味を模倣することになる。子供の欲望する対象は、母親の欲望する対象に一致すると言っても過言でない。子供は母の欲望の対象になることをこそ欲望する。じっさい『コンビニ人間』の主人公古倉恵子は、母(世界)の欲望を忖度することを健気なまでに必死に遂行する。

 つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ。

 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。

『コンビニ人間』

 ここで言われている「架空の生き物」を「キャラ」という言葉に置きかえるなら、「コンビニエンスストア」とはスーパーフラットな現代社会のことであることが知られよう。「私は、今、自分が生まれたと思った。」と主人公は語り、それを「世界の正常な部品としての私」と呼んでもいるが、生まれたのは「世界の正常な部品」としてのキャラにすぎない。「キャラ」とはスーパーフラットな風景が潤滑に作動するための道具であり、スーパーフラットな経済システムという装置になんと見事に見合っていることか。経済システム=操作主義の大々的勝利である。古倉恵子はキャラとしては生まれたのかもしれないが、彼女の固有名はそれによって殺されている。精神分析学の斎藤環は、現代におけるキャラ現象について次のように述べている。

 しかし操作主義の風潮のもとで、固有名への信仰は急速に衰弱した。人間の心身は、可能な限り操作可能性に開かれるべく、どこまでも記述可能な存在へと置き換えらえていく。しかし記述可能性に開いていくということは、固有性を喪失して匿名性へと向かう方向でもある。さらに言えばそこには複数性への契機すら含まれている。

 精神分析的な言い方をするならば、固有性を極限まで追い求めたいという気持ちは、(苦痛をも含む)享楽の追求としての欲望に近い。しかし、不便さや苦痛をどこまでも排除したいという気持ちは、快感原則としての欲求に近い。いうまでもなく操作主義が目指しているのは後者であり、これは東浩紀の言う動物化への志向とみなすことも可能だろう。
ここまで議論を追ってこられた方にはおわかりいただけると思うが、後者の追求こそが人格のキャラ化、複数化に通ずる道である。冒頭で紹介したように、すでに教室空間においてはそれが自明化してしまっている。

『キャラクター精神分析』

 軽くさらっとしたレビューを書くつもりが予想外に長くなっているので、ここからはざっくり行く。上野昂志の言う「60年代的な闇の喪失」は、80年代以降における記述可能性=わかりやすさの大々的勝利へとつながった。それは言いかえれば享楽=宗教=理念の敗北でもある(近頃テレビなどで浮ついた口調で「理念」という言葉を発する人間を見かけることがあるが、斎藤環レベルの論考を通過せずに流行り言葉として発しているのが見え見えでまず偽物である)。

 1950年代のラカンは、構造主義者としてふるまい、「大文字の他者」という象徴的秩序を強調していたが、60年代にはギリシア悲劇のアンティゴネを特権化し、宗教的実存的物語にコミットするようになる。その社会的政治的背景にはアルジェリア独立闘争があり、この闘争に加わったために投獄された娘のもとに、ラカンは『アンティゴネ』解釈の講義録を持って行ったという。

 そのラカンの研究家であり、ラカンのハイデガー=ヘルダーリン的な深層志向を共有する松本卓也は、最近ではドゥルーズ論において、アントナン・アルトー的深層の文学からルイス・キャロル的表層の文学へと重心を移動させているかに見える(「健康としての狂気とは何か」)。その重心移動は、ドゥルーズの1969年の『意味の論理学』から1993年の『批評と臨床』への移動に対応している。ここでも60年代の文化や精神が変容を迫られている。

 「60年代は遠くなりにけり」。操作主義=記述可能性=資本主義システムの不均衡なまでの肥大化を前にして、文学の存在意義とは何か?そのような切実な問いとシンクロするかのように芥川賞を受賞した『コンビニ人間』は、時代の歌を背負った貴重な作品である。

 さて「闇」について書きてきたので、ここでは「夜」をテーマにした音楽で。まずはドナルド・フェイゲンの「Night Fly」。80年代の曲だけど60年代の気風を引き継いでいる。まず第一にシブい。

 次いでシェリル・リンの「In The Night」。シェリル・リンといえば「Got To Be Real」が有名だけれど、その次のヒット曲がこれだったか。その後も「プレッピー」などもあって、このアルバムは買った記憶がある

 ただ、「In The Night」はシブさに欠けるところがあるので、もう少しシブさに寄せてクゥオータ―・フラッシュの「Night Shift」を。ロン・ハワードの名作映画「ラヴINニューヨーク」のテーマソング。映画も音楽もじつに良かった。マイケル・キートンがいい味出している。



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