60年代は遠くになりにけり・村田沙耶香の『コンビニ人間』
村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んで、「ああ、60年代は遠くになりにけり」と思わずにはいられなかった。われわれの生活を規定する構造および空間が、根本的な変容を蒙っていることを再確認したのである。
平成文化人なら「スーパーフラット」と呼ぶ現象を、昭和の文化人上野昂志は、それを「奥行きのなさ」「闇の消滅」と、60年代文化論『肉体の時代』の中で名指した。上野の著書は、1980年から1985年かけて書かれたが、その末尾において上野は、「六〇年代が、さまざまな制度から肉体が意識的、無意識的にはぐれだした時代であったとすれば、八〇年代のいまは、そのはぐれた肉体を改めて囲い込む時代のなのだ」という言葉を書いている。60年代に存在した反制度的肉体が囲い込まれた先は、「コンビニエンスストア」に代表されるような資本主義のシステムだと言える。それはまた、「コンビニエンスストア」がそうであるように、「人工的な光」に満たされた空間であり、すべてが計算可能になった世界、いいかえれば「わかりやすさ」が覇権を握った世界でもある。だから上野は次のように書いた。
ここに描かれているのは、われわれの生活空間そのものであるが、このような空間は1950年代末に登場した、と上野は言う。
団地の登場によって「無駄な空間」が消滅していったと上野は言う。そもそもおそらくは団地という建築物は、経済効率の要請から設計されたものであろうから、当然と言えば当然であると言える。「空間」というものは、多数派の論理によって、その性格が決定されてしまうものである(であるがゆえに自分たちの祖国を持たなかったユダヤ人たちは「時間」を棲みかとしなければならなかった)。高度成長期以降の日本において政治の言葉が削除され、社会主義体制崩壊以降の世界では、非経済的なものが空間から追放されていった。今や「生産性」が日本社会を制覇している。
村田沙耶香の『コンビニ人間』は、空間を巡る笑えない喜劇あるいは泣けない悲劇だと言える。ここでいう「空間」は、むろんのこと、作品に描かれた生活空間とはいえるが、『コンビニ人間』の面白さは、それを言語によって構造化された「無意識」に焦点化して描いているところにある。
精神分析医のジャック・ラカンは、人間の無意識を言語との関わりからとらえ、人間の無意識は他者の言葉によって構成されていることを見出した。無意識は通俗的なイメージが思い描くような混沌としたカオスのようなものではなくて、他者の語りおよび欲望によって構造化されている法体系のようなものとしてある。人間は構造の臣下であると、新宮一成は、ラカンとともに確認する。
人間の無意識は、他者の語りが飛びかう空間であり、他者の言葉によって染め上げられる画布のようなものとみなされている。そこには、自らの言葉を主体的に語る自己はなく、他者の言葉によって構成された構造に従属せざるを得ない客体としての自己があるばかりだ。乳幼児は大人たちが発する言葉が渦巻く空間に無防備に曝される。文字通り「あらゆる語らいが私の無意識となって、私の中に忍び込んでくる」のである。こうして人間は、他者の言葉、つまりは多数派の論理を自覚することなく習得し、その論理の方向性と意味を模倣することになる。子供の欲望する対象は、母親の欲望する対象に一致すると言っても過言でない。子供は母の欲望の対象になることをこそ欲望する。じっさい『コンビニ人間』の主人公古倉恵子は、母(世界)の欲望を忖度することを健気なまでに必死に遂行する。
ここで言われている「架空の生き物」を「キャラ」という言葉に置きかえるなら、「コンビニエンスストア」とはスーパーフラットな現代社会のことであることが知られよう。「私は、今、自分が生まれたと思った。」と主人公は語り、それを「世界の正常な部品としての私」と呼んでもいるが、生まれたのは「世界の正常な部品」としてのキャラにすぎない。「キャラ」とはスーパーフラットな風景が潤滑に作動するための道具であり、スーパーフラットな経済システムという装置になんと見事に見合っていることか。経済システム=操作主義の大々的勝利である。古倉恵子はキャラとしては生まれたのかもしれないが、彼女の固有名はそれによって殺されている。精神分析学の斎藤環は、現代におけるキャラ現象について次のように述べている。
軽くさらっとしたレビューを書くつもりが予想外に長くなっているので、ここからはざっくり行く。上野昂志の言う「60年代的な闇の喪失」は、80年代以降における記述可能性=わかりやすさの大々的勝利へとつながった。それは言いかえれば享楽=宗教=理念の敗北でもある(近頃テレビなどで浮ついた口調で「理念」という言葉を発する人間を見かけることがあるが、斎藤環レベルの論考を通過せずに流行り言葉として発しているのが見え見えでまず偽物である)。
1950年代のラカンは、構造主義者としてふるまい、「大文字の他者」という象徴的秩序を強調していたが、60年代にはギリシア悲劇のアンティゴネを特権化し、宗教的実存的物語にコミットするようになる。その社会的政治的背景にはアルジェリア独立闘争があり、この闘争に加わったために投獄された娘のもとに、ラカンは『アンティゴネ』解釈の講義録を持って行ったという。
そのラカンの研究家であり、ラカンのハイデガー=ヘルダーリン的な深層志向を共有する松本卓也は、最近ではドゥルーズ論において、アントナン・アルトー的深層の文学からルイス・キャロル的表層の文学へと重心を移動させているかに見える(「健康としての狂気とは何か」)。その重心移動は、ドゥルーズの1969年の『意味の論理学』から1993年の『批評と臨床』への移動に対応している。ここでも60年代の文化や精神が変容を迫られている。
「60年代は遠くなりにけり」。操作主義=記述可能性=資本主義システムの不均衡なまでの肥大化を前にして、文学の存在意義とは何か?そのような切実な問いとシンクロするかのように芥川賞を受賞した『コンビニ人間』は、時代の歌を背負った貴重な作品である。
さて「闇」について書きてきたので、ここでは「夜」をテーマにした音楽で。まずはドナルド・フェイゲンの「Night Fly」。80年代の曲だけど60年代の気風を引き継いでいる。まず第一にシブい。
次いでシェリル・リンの「In The Night」。シェリル・リンといえば「Got To Be Real」が有名だけれど、その次のヒット曲がこれだったか。その後も「プレッピー」などもあって、このアルバムは買った記憶がある
ただ、「In The Night」はシブさに欠けるところがあるので、もう少しシブさに寄せてクゥオータ―・フラッシュの「Night Shift」を。ロン・ハワードの名作映画「ラヴINニューヨーク」のテーマソング。映画も音楽もじつに良かった。マイケル・キートンがいい味出している。