反時代的な欲望する主体・原田勇男
1977年の実存主義
詩人の原田勇男は、衒うことも恥じることもなく、2006年に次のような言葉を率直に語っている。「私にとって詩は魂の歌だという思いは「炎の樹」の連作を始めたころから変わっていない」(「連作「炎の樹」をめぐる覚書」)。「魂の歌」。不意打ちするようなビートである。ドスが利いている。連作「炎の樹」が開始されたのは1977年のことである。原田と同年生まれの(1937年)の作詞家阿久悠ですら、このころはピンクレディーのヒット曲を手がけ、実存知らずのポストモダン路線をひた走っていたのである。「炎の樹」は次のような反時代的な言葉から成っていた。
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青春期から中年期にいたるまで持続するあるなにものかへの熱いこだわりが語られている。それは作品の中で「きみの生きざまと刺し違える固有の核」と呼ばれている。そしてそれは、羽ばたく鳥や燃え上がる樹として生成の運動を生きるものとしてある。実存のモチーフとしてこれほど真っ当なものもあるまい。「乱発した青春の空手形が/支払いを求めていっせいにたちあがり/洪水のようにくずれてくるから/魂の火の色は水びたしだ」という詩句など、同世代の大江健三郎の小説『万延元年のフットボール』の主人公根所兄弟のオブセッションを思わせる。大江にとっても「燃え上がる樹」というイメージは特別なものとしてある(『燃え上がる緑の木』)。ただし、原田も大江も敏感に感じとっていたと推測されるが、「きみの生きざまと刺し違える固有の核」という硬派で生真面目なものは、時代のプラットホームから退場させられつつあるものであった(「ひたむきに生き」ることや「固有の核」は、80年代の一時期には、「パラノ」と蔑まれて攻撃対象になっていた)。
このころのプラットホームは、1976年に創刊された「ポパイ」という雑誌によって占領されつつあった。「ポパイ」的なるものは、「きみの生きざまと刺し違える固有の核」のような享楽的なものとは、まったく真逆のコカ・コーラ的エンジョイなものを、同時代のモードとして塗り替えていったのである。アメリカ的消費様式の大々的導入である。1977年には阿部恭久(1949年生まれ)の第一詩集『身も心も明日も軽く』が出されたが、次のような言葉は実存の鬱陶しさを日常生活の外へと放り投げ、消費者の感性を肯定しようとする意志が感受される。
日常生活の任意の一点としての「給料日」が、アメリカ映画の雰囲気をフレームとして、少女の面影のほんの微かな抒情をまといながら、わたせせいぞうのこ洒落たイラストのように描かれる。60年代のロマンティシズムの栄光と悲惨から遠く離れて、より少なく不幸せである55年体制下の日常を老成した粋人のように生きる。「終わりなき日常を生きろ」という制度の呼び声は、このころから、じわじわと露骨に日本社会に深く浸透し、江戸時代のスノビズムが模範的なスタイルとしてあった。言葉遊び、パロディ、地口……。55年体制とは徳川体制のことであった。日本人に最もフィットしたスタイルであるかもしれない。1977年は吉本隆明が「修辞的な現在」を発表し、話題となった年でもある。
様式の飽和点。意味の不在。まさに歴史の時間が止まったかに見える江戸の空間そのもののような世界である。それをよしとして、情熱を仮死化させ、スノッブにまったりと生きるか。あるいは粋という制度に逆らい、掟破りの情熱へのコミットを選ぶか。1976年暮れに発表された外岡秀俊(1953年生まれ)の小説『北帰行』は後者だった。1974年の三菱重工爆破事件へのオブセッションを抱くこの作品は最後の実存文学というものであり、ぎりぎり1976年だからこそプラットホームにのれた作品であった。1年遅ければ間に合わなかったであろう。「実存くん」というパロディの仮面を被らなければ無理であった。
1979年に『風の歌を聴け』で登場した村上春樹(1949年生まれ)は、実存くん=指示表出としてふるまいながら、実存=自己表出を宥め弔っていたのである。そこから見ると1937年生まれはやはりしぶとい。おそらくそこには世代的な問題が横たわっている。
旧産業の主体
原田勇男と村上春樹の違いは何かと言えば、それは彼らが立っているプラットホームの違いである。そしてそのプラットホームの違いは、基幹産業の違いということになる。原田の世代の基幹産業が第二次産業であるのに対して、村上の世代の基幹産業は第三次産業ということになる。こうした産業間の差異における社会の変容は1950年代のアメリカ社会において観察され、デイヴィッド・リースマンに『孤独な群集』という名著を書かせた。
リースマンによれば、アメリカ人のタイプは3つのタイプに分類され、それぞれ(1)伝統志向型(2)内部指向型(3)他人指向型ということになる。「伝統志向」は「その同調性が伝統にしたがうことによって保障されるような社会的性格をもつ」とされる。「内部指向」は、その同調性が「幼児期に、目標のセットを内化する傾向によって保証され」、内面に宿された規範に従って生きるタイプである。最後の「他人指向」は、「外部の他者たちの期待と好みに敏感である傾向によってその同調性を保証されるような社会的性格」を持ち、いわゆる「空気を読む」ことに長けている。
原田勇男は、リースマンの言う「内部指向」であった。原田の描く「鳥」や「樹」が単独のものであることに注意しよう。原田の鳥や樹は群れをつくらず(樹木が複数で登場することもある)、そして内的である。初期の作品「閉ざされた海の詩」では「内部に唄を持たない黒い鳥たちの群/ついには出来上がる/無数の干からびた形骸の山」という詩句が読まれ、主体無き群衆が負の価値をおびている。同作では「人々よ/自分に与えられた手押車を押そう」「なおも生の証を求め/ゆるやかな坂道の石畳に沿って/自分の手押車を運んで行こう」「やがて手押車を世界のものとするために/すべてが世界そのものとなるために」とシシュポスのイメージとともに、素朴な理想が唄われる。より良き個人の集まりがより良き世界の実現につながると信じているかのように。
最後に原田における主体と享楽について語っておこう。原田がリースマンの言う「内部指向」に当たることを述べたが、それは伝統からの切断を意味する。それは父を通しての恩寵ある抑圧体験のことでもある。「恩寵ある抑圧体験」という表現は奇妙に聞こえるかもしれないが、精神分析によれば、そもそも「子どもがひとりの「主体」となるためには、一連の「抑圧」を通じて、つまり対象の喪失や断念を通じて、自らの欲望を方向づけることを覚えなくてはならない」(『露出せよ、と現代文明は言う』立木康介)のである。けれども現代文明においては、「喪失や断念」という欲望を構造化する機能が古い時代におけるように作動しないがゆえに、かつての時代のメンタリティを形成した、絶対的欠如に基づく享楽というプログラムが働かなくなっている。斜線を引かれて失われた主体を取り戻すというラカンの欲望の倫理が機能不全に陥っているのが現代の特徴なのである。原田の次の作品は享楽を鮮やかなイメージで物語っている。
これらの言葉は、主体の魂(実存)を励ますとともに、「喪失になしに享楽の復元が可能であるという空想」をまき散らす「資本主義のディスクール」に対する批判にもなっている。
原田勇男の詩の重要イメージの「鳥」にあやかってジミー・ヘンドリックスの「リトル・ウィング」。60年代の熱気を伝える名曲。
また、「炎」にあやかって、パット・ベネターの「ファイア・アンド・アイス」。80年代になると、軽くなるが、それなりにハードな世界を構築している。
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