荒地派、大岡信、荒川洋治(頭でっかちから体でっかちへ)
日本という体への嫌悪=戦略としての頭でっかち
日本近代詩の戦時体制に対する敗北を、粟津則雄は、「四季派」の三好達治に顕著に見られる「自然の秩序と、それに対応する人間生活のかたちとについての一種の従順さ」に起因するのだと述べている。
三好達治は自然としてのファシズムに負けたとされる。だがこれは別に特異なことではない。自然環境としての体制から逃れられる人間などほとんどいないからだ。いかめしい軍服を着た厳父のようなファシズムはわかりやすくてその恐ろしさはたかが知れている。真に恐ろしいのは、人間を包み込むように誘惑する母の肉体として現象するファシズムだ。この時、ファシズムはほとんど生の条件と重なり合っている。この甘美なファシズムを拒否するためには、人間の条件を拒否するような倒錯的な姿勢が要求される。
荒地派に属した吉本隆明の有名な作品である。「群れをつくる」という人間の条件が倒錯的な意志によって拒絶されている。「ぼくはでてゆく」というリフレインが何度も繰り返されるが、「ぼく」は「精神と身体を生きるという人間の圏域」から、過度に「頭でっかち」な世界へと出ていこうとしている(「ぼく」は一種の「自殺志願者」だ)。
とはいえ、これが戦争直後に日本の詩の歴史に登場した「荒地派」の基本姿勢であった。「個人」であることを形成できなかったがゆえ、「群れ」の重力に抗えずファシズムの加担者となった日本国民の弱点を目の当たりにした荒地派の詩人たちは、その過ちを繰り返すまいと、「群れ」という「体」を拒絶し、「頭でっかち」であることを自分たちの倫理としたのである。「理念的にすぎる」と、後発世代の詩人たちからウザがられたとはいえ。
荒地派への違和感を表明した詩人に佐々木幹郎(1947年生まれ)がいる。佐々木は鮎川信夫の「橋上の人」という作品に鮎川の美質と限界を見ている。「橋上の人」はこんな作品だ。
ここにも人々の集う町を捨て、遠い「橋の上にやってきた」人間がいる。「橋の上」こそが日本的自然という母なる体の誘惑を斥け、「頭でっかち」の姿勢を保持することができる場所なのだ。「鮎川信夫に見ることができる「知」の形というのは、「橋上の人」というタイトルがすでに示しているように、どのような群れにも入らずに、都市からもそこに住む人々からも離れて単独であろう、とすることであった」(「ドライバーの憂鬱」)と佐々木幹郎は言う。近代西欧を範とする自立した個人像を擁護した姿勢は、同時代の政治学者丸山真男の価値観とも共通する。敗戦直後の日本の文化環境においては、荒地派や丸山の言葉は効力を持った。思想的飢渇や意味への渇望を彼らの言葉は癒してくれた。しかし「思想」がヘゲモニーを握る時代はそう長くは続かない。佐々木は鮎川のことを「知」という言葉を通して語るが、そこには高所(橋の上)から風景を見るという行為、言いかえれば、視覚だけを特権化した荒地派の方法への評価と批評がある。佐々木は鮎川の限界を次のように語る。
佐々木は、荒地派は「頭でっかち」すぎて、「敗戦直後の都市の輪郭を」とらえそこなっている、と批判している。荒地派から言わせれば、視覚を特権化し、他の感覚を抑圧することで、自分たちは理念をなし崩しにする体制からの切断を図っているのだと反論するだろう。これはまあ、「諸刃の剣」としか言いようがない。
戦後の安定期に入ると、荒地派が抑圧したものを復活させた詩人が登場する。大岡信である。
感受性の祝祭
大岡信をはじめとして1950年代に登場した詩人たちを評して「感受性の祝祭」という言葉がよく用いられた。非常に卓抜なネーミングと言えるが、戦後詩は「体でっかち」の方向へと舵を切った。
荒地派と同様、視覚も登場するが、大岡作品には触覚、聴覚、嗅覚、味覚とすべての感覚が世界に対して開かれる。距離を置いた観察的批評ではなく、距離を廃した官能的密着を生きようとする。荒地派が切り捨て抑圧した「感受性の祝祭」が激しく開花している。とりわけ大岡信の才能は、荒地派が書かなかった(書けなかった)恋愛詩において顕著だった。「ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために/冬は女たちを遠ざける」(「ちいさな群への挨拶」)と書かざるを得なかった吉本隆明の非モテぶりとは大違いである。戦後の恋愛詩の傑作「春のために」から最初の3連を引いてみる。
荒地派が描くことの出来なかったキラキラのハッピー・ワールドである。「春」「笑い」「花びら」「新芽」「金の太陽」「木漏れ日」荒地派の世界には無かったものがそろっている。とりわけ「ぼくらの腕に萠え出る新芽」という詩句は「戦後」という時間を見事に表象しているだろう。
「春のために」が収められた詩集『記憶と現在』は1956年に出版された。この年、経済企画庁は経済白書の結びで「もはや戦後ではない」と記述し、この言葉は流行語にもなった。荒地派は1947年から1948年にかけて詩誌を出した後、1958年まで年刊の「荒地詩集」を刊行したが、実質的には荒地派が「戦後の出発にあたってもっていた課題の意味は、朝鮮戦争を契機として戦後日本の資本主義が相対安定期にはいった時期に、解消した」のだと、吉本は指摘している。
社会学者の見田宗介は、戦後日本の1945年から1960年にわたる15年間の時期を「理想の時代」と呼び、人々が理想に生きようとした時代であると性格づけた(『現代日本の感覚と思想』)。大岡信や谷川俊太郎が活躍し始めた1950年代後半は「理想の時代」の末期であり、高度成長時代のとば口にあたる時期であった。つまりは「頭でっかち」と「体でっかち」の中間地帯の言葉の感触がある。
別な言い方をすると、資産を持たない庶民が豊かになる時期に先んじて、経済的安定を手に入れていた恵まれた階級の雰囲気が、大岡信や谷川俊太郎の詩作品にはただよっているのである。大岡の「春のために」に登場する「ぼく」と「おまえ」が形成する世界は、佐々木幹郎がこだわった「敗戦直後の都市」とは明らかに違う。堀辰雄的な昭和文学の聖地である軽井沢の匂いが濃厚にする(『風立ちぬ』など)。ためしにいくつかの詩作品を引いてみよう。
一目瞭然だろう。これらが同質の言葉から成り立っていることが。これらは軽井沢山荘ポエムというものだ。立原道造は堀辰雄とも深い交流があり、なおかつ堀と立原はともに日本橋生まれの下町育ちだったが、そこからの離脱欲求は強く軽井沢や信濃追分の風景にすすんで埋没した。大岡も谷川もともに学者の息子であり、良家のお坊ちゃんであった。彼らの「感受性の祝祭」は階級的に限定された空間で演じられた特殊なものであった。大岡の「春のために」は「砂浜」を舞台にしているが、それは「葉山」や「鎌倉」のようなこ洒落た海岸であり、まちがっても熱海ではあるまい。月島の船大工の家に生まれ、結婚して家庭を築いた後も北区で生活した吉本隆明は、彼らとは異なる体質の持ち主のようだ。吉本は下層庶民の引力から逃れられないような資質の人であった。
空中を水平に漂う孤独な眼と空間化した現在
鮎川信夫の「橋上の人」のようには、吉本は上昇運動を模倣しきることのできない人であった。『最後の親鸞』に見られるように、上昇は下降によって相殺される。だからあるのは平行運動による移動だ。1952年に刊行された『固有時との対話』は宙を漂う眼による認識の運動の記録だ。「わたしたちは<光と影とを購はう>と呼びながらこんな真昼の路上をゆかう」と決意する詩の語り手は、「神の不在な時間と場所」であるところの「直線や平面にくぎられた物象」しかないようなきわめて抽象的な風景を移動し続ける。その移動は「わたしの思考が限界を超えて歩みたい」という願いとともにあるのだから、吉本は「頭でっかち」になりきっている。
こうして吉本は、肉体という物質を失い精神のみで生存を続けようとする。「ぼくたちは肉体をなくして意志だけで生きている」(「絶望から苛酷へ」)という詩句そのままに。ではなぜ肉体は失われなければならないのか。その理由は、肉体は物質であるがゆえに、それが収まるところの空間を必要とするが、吉本には場所が許されていないからである。
まるでユダヤ人のようである。彼らは住むべき国を持つことを許されず、時間を唯一の住みかとしてメシアによる救済を延々と待ち続けた。その願望はイスラエル国家として結実した。同じように吉本は故郷願望に常につきまとわれていた。「独りで凍えさうな空を視てゐるといつも何処かへ還りたいとおもった」
吉本は荒地派の意識的な孤立を志向しつつも、一方では旧左翼(戦前戦中の共産党)が崩壊した理由を、権力による弾圧ではなく、大衆から遊離したからだとして、民衆への回帰という荒地派的孤立とは矛盾する志向を持っていた。荒地派的孤立が「頭でっかち」であり、民衆への回帰が「体でっかち」であることは言うまでもない。
80年代の『マス・イメージ論』は、吉本の無意識に内包された「体でっかち」ファクターの発露と言えるが、『マス・イメージ論』では、執拗に「現在」という言葉が連呼されていた。「現在」と言いながらも、それは時間を意味していたわけではあるまい。80年代においてポスト・モダンということが盛ん言われていたが、それはモダンの前進運動は終息をむかえ、あらゆる時間が博物館の展示物のように並列化されていることを意味した。だからサンプリングなる創造上の技法が注目されたのだ。米ソの対立構造において歴史は宙吊りの停滞状況を蒙り、どん詰まりになった現在は空間化していたのだ。吉本は「大衆の原像」の住みかである空間としての「現在」を丹精込めて解釈していたのだ。
吉本のみならず80年代においては、柄谷行人なども「未来を語ることは反動だ」という発言をしていた。興味深いのは80年代が終わるころ空間化した歴史の打ち止めについて柄谷が語ったことである。1988年に日本で公開されたヴィム・ベンダースの『ベルリン・天使の詩』にことよせて構造主義的認識を批判したのである。この映画はタイトルが示すようにベルリンを舞台にした作品である。しかもベルリンの壁が崩壊する直前に撮られたことがまことに興味深い。柄谷の言うところをざっくり言うと、時間としての歴史を否定し、構造物としてしか見ようとしない構造主義者のような天使の時代は終わり、実存主義者としての人間として歴史に介入する時代を始めようというのである。
とはいえ、ベルリンの壁崩壊後に柄谷が見出したものは、やはり構造としての歴史であった。それに対して構造において反復する歴史を認識しつつ、空間化した歴史の外部としての時間(「過去に抑圧されたものが回帰してくる」「未来の他者は現在の人間に同意しない」)を持ち込むことで脱構築を図るという戦略を現在の柄谷はとっているようだ。
話がいささかそれてきたようなので、80年前後の「頭」「体」問題について語ろう。荒川洋治をとり上げる。
構造主義時代の体でっかち
ざっくり言うと実存主義は時間の思考であり、構造主義は空間の思考である。実存主義は日本においては1970年ごろには終わり、1980年前後には実存主義は批判と嘲笑の対象であった。前回の原稿で「自己表出=文学体=時間」と「指示表出=話体=空間」という図式を提示しておいた。1970年から1980年にかけて、荒川洋治は「文学体」から「話体」へと劇的にシフトした。以下にその移り変わりの様子を確認する。
1971年から1979年までの8年の間に、文学体から話体へと驚くべき変化である。「雅語心中」は文字通り「雅語」によって構成されてはいるが、「亡姉」という言葉が終焉を予感しているかのようだ。1975年の「見附のみどりに」は、文学体と話体の混合体といったところで過渡期である。「江戸はさきごろおわったのだ」と終わりがはっきりと宣告されているが、「口語の時代はさむい」と抵抗が演じられている。しかし1979年の「広尾の広尾」になると「真芯をいきてはならぬ」と実存主義はあからさまに禁じられている。同じく1979年の「スーラよ、理解を」であるが、ここでは「人間」は構造主義の体制の下で管理されている。この作品については瀬尾育生が「群衆」というフィルターを通して、時代の兆候を読み取っている。60年代においては群衆は実存主義的な色調で染め上げられ、アナーキーで「資本主義が馴化しえなかった欲望」を内包していたが、80年代の群衆はそれとはまったく性格が異なるという。
キャラとしての群衆。「資本主義の勝利の空間としての都市」のなかで人間の肉体と精神は管理され、システムが要求するキャラを演じさせられる。とどのつまりは肉体そのものが話体化しているのだ。平日はストレスに耐えながら勤めをまっとうしているのだから、「日曜日の午後」くらいは、他者の視線の前での演技からは解放してほしい。けれどもSNS時代はそれは許されないようだ。
SNS環境を背景に政治(頭でっかち)と経済(体でっかち)について考え続けている人間がいる。東浩紀である。次回は東浩紀の『観光客の哲学』をとり上げる。
さて、今回は「荒地派」の登場ということで、「北」を感じさせる曲を。いろいろと思い浮かぶが、ここはデヴィッド・キャシディの「Getting’ It in the Street」を。なんとなく漂う哀感が荒地派に合うような印象の曲である。やや甘い部分はあるにせよ。
次いで、谷川俊太郎の登場ということで、谷川の作詞による「俺たちの朝」。同タイトルのテレビ・ドラマの主題歌である。このドラマの影響で、舞台となった鎌倉は、一時、名所となったという。歌うは松崎しげる。松崎の代表曲の「愛のメモリー」よりも、個人的にはこちらのほうが好き。サビの「答えを知らぬ/きみにできるのは/ただ/明けてゆく青空に/問いかけること」というフレーズは、いかにも谷川俊太郎らしい。名高い詩集『二十億光年の孤独』に出てきそうだ。
ラストは、1980年に発表されたアイズレ-・ブラザーズのアルバム『Go All The Way』から「Say You Will」。ロックとソウルの見事な融合。北のテイストを感じさせるブラック・ミュージックというのが私の中での位置づけである。