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東京再開発の暴力に抗って(『思想としての東京』)

上書きされる東京

 磯田光一の『思想としての東京』を読んでいると、フロイトが心的装置を説明するにあたって用いた「マジック・メモ」のイメージが思い浮かんでくる。「マジック・メモ」というのは、今や、昭和の遺物となった感があるが、昭和40年代にはどの家庭にも一台はあった子供のためのお絵かき玩具のようなものであった。

 その形状は、全体としては、泉屋のクッキー・セットの四角い缶で、ふたの部分を透明なセルロイドとパラフィン紙から成るカバー・シートが覆っていて、その下には蠟盤がある。子供は、カバー・シートに好きな文字や絵を描き、その時蠟盤に刻まれた溝がカバー・シートに浮かび上がるのだが、カバー・シートを剥がせば、シート上の文字や絵はきれいに消え去り、子供は何度でも、同じシートに好きな絵や文字を繰り返して描くことができる仕組みになっている。

 フロイトは、人間の記憶と知覚のメカニズムをこのようなものと想定し、外界の刺激や情報を受け取るカバー・シートの下に蠟盤のようなものを想定し、無限に情報を感官で受け取りつつ、人間が記憶を保持するのは、蠟盤のレベルにおいて持続的な痕跡が保存されるからだと考えた。

 東京の発展史を振り返るとき、マジック・メモのカバー・シートに数々の文化的・政治的・経済的事象が描かれ、そして消え去ってゆく光景が浮かんでくる。現在なら、コンピューター用語の「上書き」という言葉のほうが、実情に即しているとも言えるが、開発、解体、開発の繰り返しによって、古層の記憶が摩滅してゆく歴史を、ごく自然な時間の推移として、東京という特異な空間は受け入れてきたのである。

 ところで、「マジック・メモ」と「コンピューター」という比喩が登場したが、この何気ない比喩は、なかなか意義深い概念のように思える。磯田光一自身は、おそらく、コンピューターの洗礼を受けずに、文化活動を行っていただろう。『思想としての東京』が刊行されたのは1978年10月のことである。文化シーンでは、これはぎりぎりアナログ末期と言える。というものほぼ同時期に(具体的には1978年11月)、イエロー・マジック・オーケストラがファースト・アルバムを発表し、翌1979年にはヴォコーダーによる「トキオ」のフレーズが印象的な「テクノポリス」が納められたセカンド・アルバムが発表された。

 日本橋生まれの作家である小林信彦は、最初の東京オリンピックの頃(1964年)に、東京は痛ましい「町殺し」を被ったと語っているが、1980年前後には、マテリアル以上に文化イメージにおいて、東京は大きな変化を被った。「東京幻想」というようなものが異様なほどに肥大化し人々の心を惑わせたのである。その背景には、当然、アナログ的なものが終焉を迎え、デジタル的なものが台頭してきたという事情がある。モダンからポスト・モダンという流れもあっただろうが、この時期に書かれた磯田光一の『思想としての東京』は、生き物としてあった「地方都市」としての東京の解体の劇を生々しく描いて、同時代と見事にシンクロしたのだった。磯田の筆が寄り添うのは、江戸の精神を引き継ぐ東京原人の憤りであり、悲哀である。

江戸殺人事件

 私自身かなり長い間誤解していたのだが、磯田光一は生粋の東京人ではなかった。磯田は横浜の生まれであり、8歳までの横浜暮らしを経て、葛飾区亀有に引っ越し、そこで30年余り暮らしたのち、40歳の時に千葉県の松戸市に移り、そこが最後の居住地となった。このような経歴が、精神にどのような影響を及ぼすのかは、正確にはわからない。高橋英夫によれば、磯田は気質的には下町が性に合っていたが、べたべたとした人情家ではないことを、彼の書く文章のいたるところで磯田自身表明している。粋なダンディズムに徹することが磯田の信条である。じっさい、『思想としての東京』は東京の変容を描くと同時に、サブ・テーマとして、「私があえて問おうとしているのは、都市化がどれほど進んでもいっこうに『近代的個人』としての〝生〟のフォルムが形成されにくいことへの反省、それを大きな歴史のうちから普遍的な主題として抽出しようとすること」をも目指していたのである。東京の歴史を描くと同時に、磯田は、日本の農民的メンタリティと東京原人の粋な美意識の血生臭い相克の劇を描こうとした。

 とはいえ、磯田の言う「近代的個人」は、磯田が徹頭徹尾嫌う白樺派的な「人類」を指すのではない。同一平面的な世界において「理想」が自己展開してゆくような抽象的なヴィジョンではなくて、社会の相対性の力学において、状況や他者の圧迫への反作用として、自らの世界の保持に努めようとする個が磯田の希求するヴィジョンである。だから、『思想としての東京』において、磯田が視線を注ぐ具体的な対象は、時の権力やそれと結託した資本が駆逐し葬り去った者たちであり、あるいは、そうした状況に必死に抵抗する者たちの姿である。

 磯田が確認する東京および近代日本を舞台とした駆逐の劇は、東西を軸とした西側勢力の東側への侵食として進行した。

 ここで昭和の東京が西側に膨張しながら近代化を達成したことを考えれば、新上京者として日本近代化の指導層となった地方人は、主として世田谷、杉並方面に居を構え、森茉莉のいう〝浅草族〟を工業地区のうちに封じ込めることによって近代化を達成したのである。とすれば、このひずみが文学のうちにどうあらわれざるをえなかったかを問うことは、日本の近代化の精神構造をトータルに問い直すことにもなるはずである。
 東京生れの谷崎潤一郎が関東大震災後に関西にのがれて感受性の安定をはかり、永井荷風や石川淳が地方人にたいして強固に武装しながら〝下町〟の江戸文化に固執し、さらに小林秀雄、永井龍男、福田恆存、中村光夫らが、東京の近代化に絶望して鎌倉に〝第二の江戸〟を求めざるをえなかったのはけっして偶然のことではない。住居の選定も人間生活の上では、最も広い意味での表現である。それはひょっとしたらイデオロギーの表皮の下にある感受性の質にまで関係があるのかもしれない。いま挙げた人々に加えて下町育ちの吉本隆明の、新宿にたむろする文化左翼への激烈な憎悪、あるいは江藤淳の、ファナテックなものへの嫌悪をここにつけ加えておいてもいいかもしれない。

『思想としての東京』

 このような状況を背景にして、近代以降の日本文学の表現形態のうちに、磯田光一は様々な闘争と抵抗の痕跡を見出だしてゆく。「言文一致」の口語体が明治文学の多数派を占める中で、「江戸の遺産を継承した度合いが、近代への夢に憑かれた新上京者よりもはるかに大きかった」がゆえに、「〝言文不一致〟の文語体」による表現を貫いた尾崎紅葉や樋口一葉。

 近代化の運動に同調して、お歯黒という旧習慣を捨て去り山の手言葉の新語である「奥さん」を抵抗なく受け入れた新興大衆と、旧習を固守する京都の公卿や江戸の戯作者のような頑固な保守知識人との間に挟まれたかたちで、揺れ動く日本橋の女たちがいた。谷崎潤一郎は、明治の日本橋を回顧する文章(「幼少時代」)の中で、「東京の町家のお上さんたち」が「お歯黒を塗る習慣を保っていた」ことを証言している。谷崎の用いる「お上さん」という言葉に注目しつつ、磯田はそれが「東京方言として『下町』に浸透していた用語」であることを指摘し、「谷崎家で潤一郎の母を『おかみさん』と呼ばせていたのは、鉄漿をぬるのと同じく伝統的な誇りを意味していて、『山の手』を占拠し始めた田舎侍が新興紳士に成り上がって『奥さま』という語を使いはじめたことへの暗黙の抵抗でもあったのである」と述べている。

 さらに興味深いのは、樋口一葉の「たけくらべ」にみられる空間の重心移動である。磯田は、前田愛の「たけくらべ」論(「子供たちの時間」)をとりあげ、「たけくらべ」に登場する二つの対照的な神社について言及する。ひとつは千束神社であり、もうひとつは大鳥神社である。前者は農耕神の祭りを司り、子供たちの遊びの空間を保有していたのに対して、後者は定住者を対象としない金銭の神を祭っているという特徴を持っている。前田は、「後者が前者を滅ぼしていく過程のうちに『たけくらべ』を位置づけ」、「農耕社会の空間を〝勤倹力行〟の倫理に転換させたことのうちに、〝近代〟をみ、それを『われわれの原罪』と呼ぶ」のだという。そして、さらに磯田はそれにつけ加えて、「千束神社を衰亡させて大鳥神社に力を与えていったのは、必ずしも近代日本の国家権力だけであったとはいえないのであって、じつは千束村の〝地方性〟がほかならぬ〝地方性〟自体を恥じるという心理が、大きく働いていたであろう」という見解を披露し、次のような私見を述べている。

 私の目におぼろげにみえてくるのは、ほぼ次のような構図である。すなわち、農耕神を祭った千束神社よりも金銭を祭った大鳥神社を選んだのは、ほかならぬ大衆自身であったということ、さらにいえば地方人が地方性を恥じながら、〝東京〟に幻想を生きはじめたとき、それは千束神社よりも大鳥神社の普遍性を選ぶ必然の理由があったということである。いずれ後述するが谷崎潤一郎の『痴人の愛』のナオミの出身地がじつにこの千束なのである。極端なモダン・ガールを生んだのが明治四十年代の千束であったという回路こそ、近代日本のディレンマを語って余りある。「近代」と「金銭」とを選ばないかぎり生存できないのが「地方」そのものであった。そしてこの過程は、昭和の五十年間に上京してきて新宿以西に住みついた現代日本の指導者層が〝東京方言〟が生きていた領域を絶滅に導いた過程とまったく同一の意味を持っているのである。

『思想としての東京』

 指導層と東京原人が結託して江戸殺しに加担したという陰鬱な光景が浮かんでくるが、この陰鬱な殺人事件に対する防御ツールとして、磯田は「民話」という概念を見出だしている。それは「東京方言」であったり、柳田国男が「民俗学」とともに見出す「闇」であったりするのだが、ここからは磯田の東京変容史を手掛かりに、もう少し枠を広げて、「流通貨幣=記録=コピー=偶然」の系列と「宿命=記憶=固有名=必然」の系列を対比させながら問題を展開して行きたい。

『思想としての東京』の同時代性

 磯田の『思想としての東京』は昭和五十三年に刊行された書物で、内容は明治から昭和の五十年間を扱った近現代史であり、平成や令和については全く触れられていない。四十年も前の書物であるのだから、懐メロのようなものである。しかしそこから漏れ聞こえる音楽は、およそ昔のものとは思えない。今現在目の前で繰り広げられている光景を活写しているような臨場感とアクチュアリティがある。『思想としての東京』には、「思想としての東京」とは別稿の「補論・文学史の鎖国と開国」が収められているが、その冒頭に印象深い光景が描かれている。

 磯田自身が非常に敬愛していた花田清輝の葬儀に参加した時のことである。帰り道、磯田は十数メートル離れたところに、中野重治と竹内好の二人が肩を並べて歩いているのを認める。二人は「背中をたたいたり肩を組むような恰好をしながら、談笑して車のほうに歩いていく」のだが、彼らの後ろ姿を見ながら、磯田は言い知れぬ感動が胸にこみあげてくるのを感じる

 それは「在るべきものが、在るべき場所に或る」という印象、とでも呼んだらいいであろうか。志を果した人の後ろ姿はいいものだなあ、という感慨とともに、戦前倫理のバックボーンをもった世代の人々が、次第に老いてゆくということに対する、悲哀とノスタルジアとの入り交じった感情を、私は味わわずにはいられなかったのである。

『思想としての東京』

 歴史の黄昏を前にした感傷と言ったらそれまでだが、私には「在るべきものが、在るべき場所に或る」という言葉に強い喚起力が感じられたのである。今現在起こっていることは、「在るべきものが、在るべき場所に或る」という荘厳な事実が消滅してしまったということではないか。「「在るべきものが、在るべき場所に或る」とは、まさに、磯田が近代化の波に洗われる日本の姿を追認しながら発せずにはいられなかった「民話」の主張内容の事ではないか。事物が事物の固有性を保持するためには、それに相応しい場所が必要なはずであるが、その場所が解体してしまったのである。背景にあるのは、経済を円滑に進める媒介である「貨幣」の運動である。貨幣にとっては「在るべき場所」という固有な場所など必要ない。東京だろうが大阪だろうが沖縄だろうが、特定の場所に関係なく流通しうることが、貨幣の存在条件である。むろん、これは「円」というナショナル通貨に限られたことで、貨幣の条件を完璧に満たしているのは、基軸通貨としての「ドル」である。ドルは世界の至るところで流通する普遍性を有している。

 ともあれ、私たちは、あまりにも経済優先の思考に慣らされてしまったがゆえに、たやすくは経済の論理に同調することのない異質なものの魅力を受けとめることのできる能力を失いつつあるようである。『思想としての東京』は、そのことに気づかせてくれる稀有な書物である。

流通と宿命

 この節のタイトルに「流通と宿命」という不器用な言葉を選んでしまったが、これは世代的というか、あるいはあくまでも私個人の私的な体験に関わるというか、要するに、小林秀雄と江藤淳を読んだという個人的な歴史に基づいている。江藤淳は、小林秀雄を論じた書物において次のような言葉を書いている。

 いま、私の脳裏にうかぶのは、それぞれのほとんど宿命的な「構図」にあわせて世界を切りとりつつある作家たちの姿である。そして、さらに多くの、自らの「構図」を尋ねあてられずにいる不幸な群小作家たちの姿である。彼らは、流通貨幣のような一般概念によって、世界を解釈するにすぎない。

『小林秀雄』

 ここで登場した「宿命」という言葉は、現在の感覚からすれば、いささか奇異に見えるかもしれない。いかにも大時代がかっている。ある種の精神分析なら、この言葉の代わりに、偶然的根源的刻み目というような言葉を用いるかもしれない。世界の実相を実感することは、肉体的な痛打という痛みを介してしかとらえることはできない。一般目線のような抽象的なイメージは、結局は、一般論の交換しか演じられず、多数派の頽廃的安心感をしか呼び起こさない。無償の表皮の愛撫のようなものであり、無意識の奥底が揺さぶられる経験となることはない。立木康介なら、それを、記憶と記録の対比として語るかもしれない。

 立木は、現代に観察される現象を語るにあたって、デジタル的身体(立木自身はそれを「生物学的身体」と呼ぶ)とアナログ的身体(立木自身はそれを「エロース的身体」と呼ぶ)の二つに振り分けて、文化体験をも含む身体体験の違いのうちに、見過ごすことのできない兆候を指摘する。

 誰でも手軽に、しかも大量に撮れるデジタル写真は、しかし、私たちの思い出の数をどれだけ増やしてくれただろうか。デジタル写真がアナログ写真ほど記憶と親密な関係がもてないのは、おそらく、画面の奥行感のなさといった、写真自体のマテリアルな特性のためだけではない。カメラが手軽になればなるほど、そして撮影される写真の枚数が増えれば増えるほど、私たちはカメラやパソコンへの依存度を強め、記憶するという行為そのものをこれらの機器に託してしまう。(略)アナログ写真に記憶が結びつくのは、カメラの操作から構図への配慮、さらには現像されたフィルムをアルバムに糊づけする段に至るまで、一連の作業に身体の関与が伴うからだ。記憶は、これらの作業を通じて写真の画面に留まることができるし、これらの作業の痕跡を通じて画面から呼び起こされもする。こうしたコンテクストのいっさいが、残念ながら、デジタル・メディアには残らない。そこに残るのは、ただのデータ、すなわち、「記録」だけだ。

『露出せよ、と現代文明は言う』

 「記録」と「記憶」の本質的な違いが語られている。それは「流通」と「宿命」の違いとも重なる。固有の場所の差異性を消し去り、空間を滑らかな同一性へと変貌させ、効率よく速やかに滑走する「貨幣」と、ごつごつとした物質性を伴うがゆえに、それが収まる場所を要求する「この身体」という宿命性を帯びざるを得ない、「貨幣」と対立する「固有名」の違いでもある。小林秀雄は、宿命について、「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である」(「様々なる意匠」)と語ったことがあるが、「宿命」や「必然」といった世界観には問題点もある。次節ではそれについて語ろう。

偶然と必然、あるいは複数性と単独性

 人間を人間たらしめる、あるいは主体を主体たらしめるものを、ラカンは「ひとつきりのシニフィアン」の力だと考えた。「ひとつきりのシニフィアン」とは、小林秀雄が言う「彼は彼以外のものにはなれなかった」歴史的事実を決定する偶然的かつ決定的な遭遇体験である。それは、吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で描いた、海と遭遇した原始人の発する、無意味な「う」という音の響きであり、子供が初めて言語と出会ったときに生じた衝撃としての「身体の出来事」のことである。それは無意識の領域を痛打し、存在を大きく揺さぶる、徹底してアナログな体験である。古典的な教養人は、そのような人間観を重視する。その一人に斎藤環がいる。

 先に述べた「欠如としての主体」を象徴するものが、いわゆる「固有名」である。それは確定記述の束に還元できない一つの無意味な刻印であり、この単独性こそが主体の位置を決定づける。僕たち一人一人の固有の人生の根底をささえているのが、固有名という意味のない刻み目であるということ。これが精神分析的な「人間」のモデルだ。

斎藤環『キャラクター精神分析』

 斎藤環は、小林秀雄や吉本隆明の近傍にいる。斎藤は、オールド・ファッションであり、古き良き時代の文人のようである。19世紀のヨーロッパ教養主義の末裔である。だが、精神分析もデジタルの侵食を蒙っている。斎藤環と同様、古典的な人文学のフレームを受け入れている松本卓也も、精神の病の症状に微妙な変化が生じていることを察知し、焦りを覚えている。

 たとえば内海健(2012)は、現代の心的システムを、ある種の自閉症者にみられるような「リアルなものの裏打ちを失った合理性」として考えている。それは単なるデータベースに従った計算機としての合理性であって、そこには決断の契機がなく、近代的な意味での自己がうまく形成されていないというのである。
 また鈴木國文(2011)は、二〇〇〇年代後半の言説が、「たしかに正しいのだけれども、何かがおかしい」「その言説が可能になる「手前の問い」が問われないままに言説が流通する」という特徴を持っていることを指摘している。たとえば「自由」について考えてみると、現代ではネオリベラリズムに代表されるように、人間が自由であることはもはや証明など不要な前提となっている。そこでは、もはや「自由とはそもそも何か」「自由は可能か」という根源的な問いは決して問い返されることがない。

松本卓也『享楽社会論』

 私自身も、同時代の風景に対して、同じようなものを感じている。「デジタルを通じての金もうけ」というイデオロギーが跋扈しているのを感じる。「アナログに裏打ちされた遠回り」といったものが排斥される状況が広がりつつある。ポーズでなく、身体に裏打ちされた差異性に対する感性が急速に消滅しつつある。デジタルとは全く関係はないが、磯田光一が「白樺派」について述べたことを、デジタル推進派の雰囲気に感受する。

 しかし個人の伸長が社会の調和にいたるためには、その思想を拒否する人間の住むべき場所が許容されねばならないが、白樺派の思想のうちではそこがおおむね不在のままになっている。
(略)
 白樺派のコスモポリタニズムは、芥川や谷崎のもっていた「下町」の地方性を切り捨てたところに成立した。そこには、社会と同一の平面に異質の個人が並んで互いに他を相対化しているものだという認識もなかった。極言するならば、現世の現実が理想や悟達にいたる手段としてとらえられるとき、他者はすでに見えなくなっているのである。

『思想としての東京』

 ここで言われている「白樺派」の姿は、私には、いわゆる、IT起業家の姿と重なる。彼らの頭の中には生産性と効率性しかないように見える。流行りの言葉であるから、一応、「多様性」という言葉も使い慣れているようだが、物質としての差異性との遭遇体験を、潜り抜けたという気配をあまり感じることはできない。それは、お洒落というよりは、どうにも野暮ったい愚鈍の体験であるから。

 デジタルなコスモポリタニズムの暴力には、一時的に、アナログな単独性によって抵抗することは、ひとつの手段としてはありである。磯田が希求していた「近代的個人の生のフォルム」というスタイルは、真っ当な批評であり、真っ当な世界の構成要素である。ただ、それを盲信するわけにはいかない。磯田が、花田清輝や中野重治や竹内好の姿に、「戦後憲法よりも明治憲法に近いメンタリティ」を感じた、と正直に書いているように、留保をつけ再び相対化の運動を導入しなければならない。この場合、ニヒリズムは、健全なバランス感覚である。資本の横暴を国家は止めることをできるが、国家は必要悪であって、信仰の対象にはならない。

 「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である」という小林秀雄の言葉は、「僕たち一人一人の固有の人生の根底をささえているのが、固有名という意味のない刻み目である」という斎藤環の言葉とピタリと重なるが、小林の認識は、小林が偏用した「宿命」という概念に転じやすいところがある。「彼は彼以外のものにはなれなかった」宿命は、必然に見えるけれども、その必然は偶然の可能性が現在時において消えたところの必然であり、永遠の真理ではないのである。同様に、「彼自身」という固有名は、「彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう」という潜在的な複数性に裏打ちされた単独性なのである。この鬱陶しい認識に拘り続けたのが、東浩紀が読みこんだジャック・デリダであった。デリダは、「偶然性と複数性」のことをけっして忘れなかった。

 同一性を持ちたくないわけではない、とデリダは明言している。しかし彼には幽霊の声(叫び)が聞こえる。それは彼の同一性が決定された瞬間の、偶然性と複数性の記憶である。(略)ひとつの文化あるいは言語の中にあること、つまり同一性が同一性として与えられること、その瞬間にはすでに幽霊(エクリチュール)が侵入している。デリダは自分が今の自分になっている、その偶然性が忘れられないのだ。その忘却ののちはじめて、自分はアルジェリア生まれだから、ユダヤ人だからという文の接続、すなわち文化の「配置」について語ることができる。

『存在論的、郵便的』東浩紀

 この世に存在することが暴力を伴うことであるなら、固有名を刻みつけることもまた、ひとつの暴力である。固有名であること、単独者であること、すなわち、「一者」であることは、潜在的な複数性を抹殺することと表裏一体であるからだ。この世に単独者として立つことは、畢竟、勝利であるが、勝利には不可避的に権力が付随する。デリダはこの権力が気に入らない。彼の生のスタイルは勝たないこと、言い換えれば何もしないこと。デリダは、良くも悪くも、万年野党である。負けることで、哲学を語るという、仙人様のようなお方だ。しかし、凡人は仙人様のままではいられない。凡人は、現実の中で生きざるを得ず、そこでの生き死には現実的結果に左右される。負け続けることは、ある意味では、ゆとりや余裕のある特権的な人間が手にすることのできる贅沢品とも言える。野田佳彦元首相が国会で読み上げた、安倍晋三元首相への追悼演説の人口に膾炙した言葉を借り受けるなら、「負けっ放しはないでしょう、デリダさん」と言いたいところだ。

 では、「負けっ放し」にしないためにはどうすればよいのか。正解は特にない。昭和の終わり近く、磯田は、永井荷風に倣って、直立したまま、目を見開いて世界を観察し続けるという意味のことを語っていたが、正確無比な視力の行使によって、権力に圧を加え続けることはひとつの方途であろう。『思想としての東京』の補論で、磯田は、第一次戦後派や「近代文学」派の「三十年にわたる一貫した持続」を称賛した。歴史にコミットすることは、とどのつまりは、持久戦を耐えることなのだろう。政治闘争の資質はマゾヒズムだと、誰かが言っていた。日ごろは貶められ、ネガティブな評価を受けやすいマゾヒズムであるが、縁の下の力持ちは、やはりそれにふさわしく顕揚しなければなるまい(とはいえ、磯田自身は自分のことをサディストの気がある、と言っていたことを読んだ記憶があるのだが)。

場所の名をタイトルに持つ音楽特集

 ということで、東京が話題となったので、「東京」および土地が出てくる音楽を特集する。まずは、セメントミキサーズの「東京ラッシャイ」。一世を風靡した「三宅裕司のいかすバンド天国」出身のバンド。栃木県のバンドで昭和歌謡の残り香を漂わせ、クレイジーケンバンドとも重なるキャラである。

 ご当地ソングといえば、まず思い浮かぶのが「小樽のひとよ」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)である。昭和歌謡の王道で、演歌的要素とニューミュージック的要素の配分が絶妙で、忘れがたい逸品である。

 洋楽からはジェリー・ラファティの「ベイカーストリート」。スティーラーズ・ホイルのメンバーであった。こちらは洋楽ポップスの王道を行っている。

 次いで映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の主題歌。映画自体も話題となったが、テーマソングも注目を集め、いろいろとカヴァーされた。ここではポール・モーリアのヴァージョンを。

 ラストは、エルボウ・ボーンズ&ザ・ラケッティアーズの「ナイト・イン・ニューヨーク」を。私はこの曲が大好きで、1983年の作品だが、若干前時代にずらした微妙なオールドファッション・テイストが素晴らしく、ミュージック・ヴィデオにもそのセンスは反映されている。


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