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なれし袖もやこほるらむ
忘れずはなれし袖もやこほるらむ寝ぬ夜の床の霜のさむしろ |定家
氷点下の詞が並ぶ。上句で凍り、下句で霜が降り、寒い蓆(むしろ=寝具)の上にひとり震える身体を横たえる。
「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」(前々回)もかなり寒かったけど、そんなもんじゃない。もし私のことを忘れていないなら、二人で重ねた袖が涙で濡れて、今夜のような寒い夜に凍りついているでしょうか。私は冷たい床でひとり、寝られないまま、あなたのことを思っています。
でも... そういう悲痛な歌なのかどうか。
冒頭の「忘れずは」が気になる。一般的には、覚えてる?忘れてないよね?と念を押すことばだ。少し前まで袖を重ねていたのに、最近来なくなってしまったのはなぜなの?
もし念を押す状況でないとしたら、どうなのか。たとえば、きのうも二人は会っていた。おとといも、その前も。二人は氷点下じゃなくて熱い熱い夏の真っ最中。ただ今夜だけ彼が来れない。前から言ってあって、彼女もわかってる。だから彼女はわざと「忘れずは」と言った。一日会えないだけで袖も凍り、霜も降りるほど愛し合っている羨ましいカップルということになる。
寒いのか熱いのか。作者・定家にとって、それはどちらでもいい。彼の目指すのは状況を短詩に再現することじゃないからだ。じゃ、何? それが難しい。なんだろう。言葉は意味と不可分だ。不可分なのに、意味から自由であろうとする。この矛盾。この複雑さ。R. Venturi の本の題名 "Complexity and Contradiction" みたいだ。