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袖ふきかへす秋風に
旅人の袖ふきかへす秋風に夕日さびしき山のかけはし |定家
この日の歌会のルールは、五句目に「梯(かけはし)」を置くというものだった。「橋」にはすでに動きのニュアンスがある。詩は言葉の結晶だとして、その表面になにかの影がスッと動く。袖ふきかへす風であったり、暮れゆく空の色だったり。結晶の置き場所によっては、一篇の物語さえ映る。村尾解説*によると、舞台は中国、時代は唐代。「旅人」は反乱軍に追われて蜀の地を目指して落ちていく玄宗皇帝の軍。途中、最愛の楊貴妃さえも処刑しなければならなかった。袖をふきかへす秋風はさぞ冷たいだろう。山あいに沈もうとする夕日は淋しさの極みだろう。険しい山道に辛うじて架かる梯を、重い足をひきずりながら渡っていくのだ。
もう一首。「閑居」という題で読まれた歌。
わくらばにとはれし人も昔にてそれより庭のあとはたえにき
「わくらばに」は、たまたま、偶然。「人がたまたま訪ねてくれたのも昔のこと。それ以来、庭の足跡は絶えた」。閑居といっても、悠々自適の隠居暮らしというわけではなく、不本意ながら都から遠く離れた地に暮さざるをえない状況のように感じられる。跡も絶えた庭を見ながら、溜息をついているような雰囲気だ。再び村尾解説*を参照すると、在原行平(業平の兄)の次の歌につながる。
わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答へよ
もし、たまたま私の消息をたずねる人があったなら、須磨の浦で海藻にかける海の水のように、涙を流しながら淋しい思いをしていると答えてください。
行平は何らかの事件に遭って須磨に流されたらしい。スケールはちがうが、玄宗皇帝と似たようなものだ。「藻塩たれつつ...」と答えよと言ったのも思えば昔の話。足跡ひとつつくことの無い庭が悲しみを増幅する。
世の中はなぜか、うまく行かないことが多々ある。どうして玄宗は栄華を持続できなかったのか。行平はなぜ弟のようにモテまくる日々を堪能できなかったのか。
定家自身も、かなり無防備な人で、あやうく後鳥羽上皇の逆鱗に触れて須磨の浦で藻塩を垂れるはめになりかかっている。紙一重だ。しかし実際に藻塩を垂れたのは上皇の方だった。承久の乱 (1221)、元・天皇が平民幕府によって流刑に処されるという、歴史的不祥事。「旅人の袖ふきかへす...」が詠まれたのはそれより以前のことだが、隠岐に送られる船上でおそらく上皇は夕日を見ながらそれを思い出していただろう。
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* 村尾誠一『藤原定家』(笠間書院・コレクション日本歌人選 011)