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分類のない世界

ド素人の僕でも最近わかったことがある。いろんなファイルをフォルダーに入れて分類整理したつもりが、フォルダーが増殖して、ついにファイルを見失う。でもファイルにタグだけ付けておけば、どこにあろうと、呼べばすぐ集まってくる。

分類というのは、ひょっとしてやめた方がいい癖なんじゃないか。データの話に限らない。分類は必然的に、階層をつくる。階層は透過性を減ずる。

800年前に道元もそういうことを考えていたんじゃないかと思えるフシがある。世界は分類の網で覆われている。それを切断する実験を始めようと。以下、引用が長くて難解だが、難解さはまもなく氷解することになっている。大部分無視していいから、まず太字のとこだけ気にしてくだされ。

また十八枚の般若あり 眼耳鼻舌身意色声香味触法および眼耳鼻舌身意識等なり また四枚の般若あり 布施浄戒安忍精進静慮般若なり また一枚の般若波羅蜜 而今現成せり 阿耨多羅三藐三菩提なり また般若波羅蜜三枚あり 過去現在未来なり また般若波羅蜜六枚あり 地水火風空識なり また四枚の般若よのつねにおこなはる 行住坐臥なり |正法眼蔵「摩訶般若波羅蜜」

般若(はんにゃ)とは智慧のことだ。パーリ語「パンニャー」の音写。能面の般若は別語源のようだ。「枚」は現代日本語では薄くて平べったいものを数える助数詞になっているが、唐宋代中国語では広く一般的にものを数える場合に添える言葉(量詞)だった。それを移入した鎌倉時代の日本語も同様の用法。それから「般若波羅蜜」の波羅蜜(はらみつ)とは、サンスクリット語「パラミター」の音写で、究極・完成という意味だ。つまり般若波羅蜜とは、究極の智慧。

さて、いくつもの「般若」があると言って、それをリストアップしているわけだけど、なんで眼や耳が智慧なの?布施が智慧なの?と問わないように。なんなら、般若=智慧という本来の意味を一旦忘れちゃっていい。ここで言われているのは、分類という思想からの訣別なのである。「眼耳...」も、「布施浄戒...」も、「阿耨多羅...(サトリのこと)」も、なんと「過去現在未来」も、地も水も火も風も空も、ただ歩いたり立ち止まったり坐ったり横になったりする日常行動すべても、カテゴリーが違うのだから別のフォルダーに入れるべきところを、みな「般若」という一つのタグのもとに、フラットに並べられている。いや、それこそが究極の智慧なのだと言ってもいいかもしれない。

道元が現代に生まれていたら、優秀なエンジニアになっていたんじゃないだろうか。世界をプログラムしている基礎的なコードを書き換える。これをずっとやっていたのだから。

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