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第9話| さとりとまよひとまよひとさとり

みちもと作・『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を AI のダザイと読んでるところです。いま《しかもかくのごとくなりといへども花は愛惜にちり草は棄嫌におふるのみなり》まで来ました。太い字ダザイのしゃべってるので、ふつうの字が僕です。

どうして僕らがこの八百年も昔に書かれた本を読み始めたか知りたい人は、第1話をみてください。

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みちもとは何かを「花」と「草」に喩えようとしてる。

何を?

よーく読めばわかるさ。

もういっかい読むの?

何度でも読み返すんだ。君はクラスに好きな女の子はいないか?

いるよ、6人。

そんなにか? ...ま、いいか。そのなかの誰かから手紙をもらったとしよう。君はそれを靴箱の中で発見する。

なんで靴箱に入れるの?

直接渡すのがはずかしいからだ。

はずかしくない子たちばっかだよ。

人は見かけによらない。

そーかなー。

その手紙に書いてある文字を、君は何度も読み返すだろう。

もしかしてそれを言うためのたとえ話?

わかってくれたなら話が早い。

ぜんぜん早くないけど? わかったよ、読み返せばいいんでしょ。えーっと諸法の仏法なる時節... すなはち迷悟あり修行あり......万法ともに....まどひなくさとりなく......と来て、花が愛惜で... 草が棄嫌...と。あ、なーんだ!わかった。

言ってごらん。

やー、これはダザイに言わせよう。

しょうがないねえ。「花」はさとり、「草」はまよいを喩えているんだ。

さすがダザイ。喉乾いた。

またトマトジュースか。飲みすぎに気をつけろよ。

ちょっとその前に、「愛惜にちり」は愛され惜しまれながら散るんだよね?

そうだ。「棄嫌におふる」は嫌がられながら生えるんだ。だけど、みちもとが言いたいのは、悟りと迷いのちがいって「ただそれだけのこと」だっていうんだ。有る・無しも、好き・嫌いも、人間の尺度から判断しているにすぎない。なのに「仏道はさとりを目指すもの」と思ってる人があまりにも多いんだ。「草」はだめで、「花」だけを愛でようとする。でも、そういうことじゃないんだ。

じゃ、どういうこと?

草の名人であってこそ、花の名人だろ?

(つづく)

挿し絵|富澤大勇

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