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磨く/道元の教え 5

古鏡も 明鏡も 磨塼より作鏡をうるなるべし |正法眼蔵「坐禅箴」
— いにしえの鏡も、明るい鏡も、塼(かわら)を磨いて得たものだ。

現代のガラス鏡ではなく、金属鏡の話だ。銅を鋳型に入れて鋳造し、研磨して反射面を得る。塼をいくら磨いても鏡にはならない。何を言っているのだろう。

石器時代を想像しよう。200万年だか前に人類は石を道具として意識し始めた。最初は大きな石を砕き、偶然出来た鋭角のエッジを、ものを切るために使用しただろう。使用が続けば鈍化する。これをもとの鋭角に戻すため、あるいはさらに鋭くするために、磨くということを発見するに至った。銅を研磨して鏡面にするのは、磨石(磨塼)の技術の発展なのだ。

というのが合理的な説明。道元が知るはずもない人類学・考古学の知見を使っている。じゃ、道元はどうなの?

もとになっている大寂と大慧の問答はこうだ。大寂が坐禅をしているところに、師匠の大慧がやってくる。

— 大寂さんや、どうして坐禅しているのかね。

— さとりをひらく(作仏)ためです。

すると大慧はその辺に落ちていた塼の破片を拾って、砥石で研ぎはじめた。変に思った大寂が訊く。

— 師匠、なにやってるんですか。

— 鏡にするんじゃよ。

— 師匠だいじょぶっすか?塼を磨いて鏡になりますか?

— 坐禅してさとりがひらけるのかい?

道元はこれに肯定的な答えを与えているわけだが、とにかく黙って坐りなさい、坐ればいつかわかる–––じゃなく、なぜ坐るか、坐ることの意味を、根本から説明しようという態度だ。なぜ塼を磨くか。ここでフォーカスされているのは塼ではなく、磨なのだろう。磨の所作のなかにすでに鏡をみる。鏡に磨をみる。この直観を人類学的に肉付けすればはじめの説明「磨塼の発展としての作鏡」になる。直観は一瞬、実証は数十年。

「さとり」がどういうものであれ、それはすでに坐のなかにあるということなのだろう。坐るという所作は、身体が坐るだけでなく、空間も同時に「坐る」。坐ることを前提の一部として日本家屋の建築空間は推移した*。身体とそれを容れる空間の質は所作に示される。さとりを巡る形而上学的議論はさておき、磨塼問答はその形而下的観察が可能なことを教えてくれる。

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* 安原盛彦『日本建築空間史 — 中心と奥』鹿島出版会 2016

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