小池百合子のおかげで創作と実在の死の違いがわかった話
いつからだろうか。実在の人の訃報に心が動くことがなくなった。知人、親戚、有名人、誰彼であろうと凪いだ心のままなのだ。これだけ書くと「冷血ニヒル気取りの厨二病なんじゃない?」とも思える。けれど、創作上の人(=キャラクタ)の死には心が動くのだ。何日も引きずる程度にはショックを受けたり、逆に声をあげて喜んだり。
実際、程度の差はあれどこういう人は多いんじゃないだろうか。訃報を知らせるニュースを傍目に、毎週アニメや漫画雑誌で非実在の人物の死に一喜一憂する人。これらの理由を「単に興味関心があるかどうか」として打ち止めにしてもいいけれど。最近になってより踏み込んだ理由付けができたので、せっかくだからそれについてつらつら書きたい。
結論から述べると「そこに"意味"がある、或いは"意味"を見出すことが出来るような”物語”であるかどうか」これが心の動きを左右する要素だと思う。
死の必然性
創作上の非実在の人(=キャラクタ)の死には漏れなく"必然性"がある。その世界の創造者である筆者が、この人はここで死ぬべきと思ったから死んだのだ。作者が知り得ぬうちに勝手に人が死ぬなんてことはない。ここで死ねば展開にメリハリが―悲壮感が―爽快感が―無常感が―生まれるから。作者は、その人を死なすのに然るべき理由・意味を持っている。
また読者はその死が物語においてどのような意味を持つのかを見出すことが出来る。その見出した意味によって心が動く。
悪逆非道を尽くした人が死んだら勧善懲悪が成されたと見なし、温厚な善人が討ち死にしたら感動的・悲壮的な展開だと見なし、名もなき人々が鏖殺されたら無常的・絶望的な展開だと見なす。時折作者の意図と読者の解釈が異なることはあれど、その死は必然性と意味がある、というのは変わらない。
対して実在の世界の人の死には"必然性"がない。その人がそこで死ぬに然るべき理由があった!なんてことはあり得ない。たまたま、運悪く死んだだけだ。その死には"偶然性"しかない。もちろん病を患っていた、災害に巻き込まれたなどその死には理由があれど、死ぬのがその人で然るべき理由はない。
ここまで書いて「いや、そんなことはない。あいつは死んで然るべきだ。あの人が死んでいい理由なんてなかった。」と思った方もいるかと思う。その者たちは実在の人の死に対して物語を、意味を、見出しているのだ。
あんな奴は死んで然るべきだと思うのならば、勧善懲悪的な物語を見出している。悪人は畳の上では死なれぬのだと思っている。
あんないい人が死んでいいはずがないと思うのならば、無常的・悲壮的な物語を見出している。善人ほど早死にするのだ、無情で儚いものだと思っている。死ぬべきでないと思うということは、死ぬに然るべき条件があると思っている裏付けでもある。
しかしながら死には"必然性"も"物語"も"意味"もない。少なくとも私は実在の死は"偶然性"しかないものだと見なしており、故に物語も意味も見出すことは出来ないのだとしている。善人も悪人も若人も老人も関係ない。たまたま死んだだけだと。故に心が凪いだままだ。
対して死には必然性があると見なす人はそこに物語を、意味を見出す。あんな善い人が、悪人が、前途ある若者が、好々爺が。どうして死んだのだ、死なぬのだと。故に心が揺れ動く。
死に意味を与えてくれた小池百合子
さて、最初に述べた死に感動するかは興味関心があるかどうか?という論に戻ろう。これは当たらずとも遠からずで。そも興味関心がなければ物語、意味を見出そうとは思わないからだ。
……逆に言えば、たとえ興味関心がなく必然性がなく物語を見出すことが出来なくても、外部からその死に意味を与えられれば心が動くとも言える。
この人の死にはこんな意味がありました!と誰かが定義してくれればいいのだ。そんなことがありえるのだろうか? あったのだ。ここでやっとタイトルの小池百合子が登場する。
去る2020年3月末、タレントの志村けんが亡くなった。例に漏れず私の心が動かされることはなかった。どんな人物か多少は知ってたし、世間の嘆く反応も見たが。あー死んだんだという反応が精々だった(一応述べておくと、志村けんを侮辱する意図はない)
しかしその訃報に続く小池百合子の以下の発言によって私の凪いだ心に変化がもたらされた。
「まず、謹んでお悔やみを申し上げたいと存じます……(中略)……最後にですね、悲しみとコロナウイルスの危険性についてですね、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、その最後の功績も大変大きいものがあると思っています」
「……確かに!ここで有名人の志村けんが死ぬことで世間が危機感持ったよな。老人だったっていうのも大きい。ナイスタイミングだなぁ。」
大変不謹慎なのは重々承知で、正直に述べれば私の反応はこんな具合だった。もちろん世間は小池百合子のこの発言に対して非難囂々だった。
しかし私にはこの発言に感謝こそすれ非難をするなんてありえなかった。そう、小池百合子が志村けんの死に「コロナウイルスの危険性を知らしめた」という意味を与えてくれたからだ。
「エンタテイナーで、皆に笑いを届けた志村けんが、最後に世間にウイルスへの危機感を抱かせるという功績を残して死んだ」という美しい物語を与えてくれたからだ。
そうしてやっと初めて私は志村けんの死に心が動いたのだ。小池百合子が、心が動く死の条件を知るきっかけを与えてくれて、延いては上述した"創作と実在の死の二項対立論"を建てるに至らせた。そしてこの論理が私の長年の心の凝りをある程度解消してくれた。
世間がこの発言をにどれだけの非難を浴びせようとも、少なくとも私だけは小池百合子に感謝をしたいと思う。
「志村けんの死に、"物語"を、"必然性"を、"意味"を与えてくれてありがとう……」と。
(※当記事に実在の人物を誹謗中傷する意図はありません。本当だよ。)
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