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「〇〇する」とか「〇〇させられる」について
そこにある壁
体調を崩していた中で、病気などというのは防ごうと思って色々と策を講じていても、襲われる時には襲われるし、不可抗力的だよなぁ、なんて思ったところから着想して書いてます。
「〇〇する」と「〇〇させられる」との間にある壁みたいなものはどうやったら取り払えるのだろう、と。
〇〇という中にはいる言葉としては、なんでもいい。
「ワクワク」でも「イライラ」でも「ドキドキ」でも。おそらく、そこにはいる言葉は感情が上下している様子を表現する言葉がはいる。
ただ、そのあとの言葉が変わるだけで、その意味合いが大きく異なることがよくわかった。
例えば「ワクワクする」と「ワクワクさせられる」という言葉を見て見ると一目瞭然なんだけど、主体がどこにあるのかが変わる。
「する」だと自らに主体性があり、「させられる」だと主体性は自分にはない。当然といえば当然なのだけれど。
とはいえ「させられる」と使う人は、本当に自分に主体性がないのかどうかを再度確認したほうがいいんじゃないかなぁ...なんて思ってしまったのが記事をしたためる理由。
誰かのせいにしている
「ワクワク」みたいに上機嫌な言葉を使うものだとその違いがあまり感じられないのだけれど、「イライラ」のようにネガティブな感情表現になった途端に違いが明白になる。
「イライラする」は、この言葉だけを見ると誰に対して向いているのか分からない。自分に対してなのか、自分以外のことなのか。しかし、「イライラさせられる」は完全に自分以外の対象がいることがわかる。
で、イライラさせられる、というのは「自分の思うようにいかないから」なのか、「自分では太刀打ちできない状況になってしまっているから」なのか、何れにしても自らでは制御できない環境に置かれてしまっているから出てくる言葉なのかもしれない。
そういう状況というのは往々にしてある。
別にそれをすることが悪いことだとは思わないのだけれど、したところで解決に進むわけではないということもわかっているはず。
考え方を変えよう、などというつもりはない。
そこに至るまでの過程は、それぞれに抱えているものがあるからこそ、至っているのであり、その過程を変更する他に解決の仕方が見当たらないから。
ただ、その過程を変えるためのキッカケとして、「他人のせい」にするかしないかというのは大きいと考えている。
ワクワクする、というのは自らが好奇心を持ち、その好奇心に任せた行動をとることで満たすことができる。
イライラはどうか。嫌悪感が先に立っている言葉だが、これを満たす必要は全くなくて、それをどう諫めていく、もしくは少なくしていくのか、が課題。
そこにどう立ち向かうべきなんだろう。
主体を自分に取り戻す
そんなよくわからない迷いや悩みにぶち当たった時に、僕がしていることは「主体を自分に取り戻す」ことだ。
基本的に僕の人生は僕のものだ。他の誰のものでもない。
もし、他の誰かに行く道を阻まれるのであれば、ちょっと横をすり抜けていけばいい。
簡単にいってしまえば、気にしてしまうから気になるのであって、気にしなければいいのだ。
「そうはいっても...」というのもよくわかるし、僕自身、自分ではどうしようもないことを目の前にして、立ち尽くすことも少なくない。
だけど、それすら自分の問題であって、他人の問題ではない。ワクワクもイライラも、ましてやドキドキも「自分がしたいと思っているからしている」のであって、他人がどうこうできない。
全て自分がしていることであり、自分に責任がある。
させられる、というのはある意味で自分の責任を放棄した人が放つ言葉なのかもしれないなぁ...なんて。
今日もワクワクしていきましょう。
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