自分がどうなりたいのか、というお話
先日、我が家の嫁と話していて、彼女から「自分がどうなりたいのかわからない」という旨の話が。これは割と難しい課題だな、と。
というのも、世の中に「どうなりたいのか」が明確になっている人の方が少ないんじゃないか、いや、それは日本だけの話で、実は日本以外の国に住んでいる人たちは少なくとも、自分の生活の延長上に「どうなりたいのか」を明確に定めているのかもしれない。
だけど、日本の中で「どうなりたいのか」という像をハッキリと思い描き、そこに対して道筋を立てて歩いている人というのは果たして多いのか少ないのか。
それを調べる術を僕は持っていない。だけど、自分と目の前でそのことについて考えている妻がいるので、二人分ぐらいは考えることができそう。
「どうなりたいのか」という問いに対して答える、もしくは自分なりに回答を持つためには「場所」と「何ができるのか」ということが必要な条件になろうかと思う。
「どう」というのは何かをしている状態で、それをする・できる存在という意味で「なる」。そして、それを目指したいのかどうかという点がわからない、ということだと二人で定義づけした。
つまり「何を」する人で、それは「どこで」やっているのかという点が明確になっていない、ということが彼女から今回出てきた話題ということに。
ま、そもそもそれを考えたところでその通りになることが果たして良いのか悪いのか、なんてことを考え出したら詰まらない。
大切なのは、そのプロセスを誰かと共有をしているかどうかだ。一人でやろうとしている状態ではなく、誰かにその過程を見せているのかどうか。
僕は割とその辺りは深く考えないようにしていて、ボヤッとした状態のまま、自分がやりたいと思えていることをできると思うレベルで繰り返すことが大切だと考えている。
だから、僕の彼女に対するアドバイス(と呼べるような代物ではないけど、それ)は、毎回のように「できることをすればいいんじゃない」だ。
これは目標設定の問題だ。
自分に高望みする人は、過去の自分も含めて一定数いると思ってる。大体その人たちの目標設定は、高い。エラくびっくりするぐらいに高い。(過去の自分への戒めも含めて書いている。笑)
その高すぎる目標設定は、自らの能力を鑑みずに立てられていることが多く、「できないこと」も含めた上で設定されていることがほとんど。
ここでいう「できないこと」というのは、自身にそれを一人で完結できるだけの環境と状況にないのと同時に、それを助けてくれる人、つまり頼る人の存在もない状態のことだ。
自分でもできないのに、それに輪をかけて、頼る人の存在もないというのは簡単に絶望的な状態だと思うのだけど、高すぎる目標設定をしてしまう人(過去の自分)は、それに気づかない。
なぜなら、高すぎる目標設定をしてしまい、そればかりを見ようと躍起になっているから足元が見えない。
自分には何ができて、何ができないのかを明確に線引きできていない上に、そのできていないことを誰かの頼むこともできないぐらいに、その目標に対して盲目的になってしまう。
だから、目標は低ければ低いほど良い、と僕は思う。
なぜなら、目標が低いということは自分が責任を持って取り組めることが明確になっているからだ。
自分には何ができて、何ができない。そして、そのできないことをやろうとするには誰々の力が必要で、その誰々はこんな状況だから頼むことができないかもしれない。だけど、その誰々から違う人を紹介してもらうことならできるかもしれない。
といった具合に、自分にできることを繰り返すことが着実に、そして確実に物事を前に進めるための原動力になることは間違いない。
だから、どうなりたいのか、ということを悩んでいる人がいるのであれば、僕が言えることは一つで、「できることをやりましょう」ということになる。
できることを繰り返している中で、できることの範囲が広がる瞬間を味わったことがある人は少なくないと思うけど、それを実感できていない人は気づいていないだけだとも思う。
あまり高い目標を目指すのではなく、できることを繰り返すことの先にあることを見ることがいいんじゃないかな、ということで我が家の嫁との話は終わりました。
です。
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