企業にとっての情報発信とは「能動的で生産的な最低限度の仕事」なはず
はじめに
はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。
どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。
「情報発信は大事である」
こんな風に考える人たちは10年前、20年前、30年前と比較して明らかに増えているのだろうか。
総務省の令和4年版情報通信白書をみれば、企業の情報化投資の額は年々、確実に引き上がっている。その背景には個人のインターネットの利用動向の増加、スマートフォンの普及やソーシャルメディア利用者数の母数形成など、企業にとって情報発信することは大事であるどころか企業が存在を提示するための前提条件となっているとさえいえてしまうことがわかる。
いわゆるソーシャルメディアと呼ばれる媒体の栄枯盛衰がある中で、ぼくたちはさまざまな媒体にアカウントという名の人格を持ち、それを利用して有益なることも無益なることも関係なく投稿している。
「〇〇なう」 「〇〇だん」
個人でいえば気軽に自分がどこにいるのか、何をやったのかを投稿しあっていた牧歌的なソーシャルメディアの時代を超え、いまはどこで誰が「注目を集めるのか」を否が応でも比較されるような世界線に突入しており、善し悪しもなく瞬間的に流れていく。
すぐに埋もれてしまい、拾い上げてもらえるかどうかではなく、見つけてもらうことを前提にしなければならない殺伐とした風潮の中で、個人法人問わずに情報発信することの意義はなんだろうか、なんてことを暇だから考えてみることにした。
効率的に業務をしたい現代社会
いま、日本は過去に類を見ないほどに仕事の中で生産性や効率性を求められる国になった。
日本生産性本部によると、2020年度の時間あたり名目労働生産性は4,986円でOECD加盟国38カ国中23位という堂々たる成績を収めるだけに、なんとしても生産性を挙げなければならないと国も市井の事業者も必死になっている。
みんな、なんとかしたいのだ。
「がんばる」だけではどうにもならない時代になってしまい、やればやる分だけ勝手に経済成長してくれるわけではないことを身にしみてわかっているからこそ、「生産的に」「効率的に」と躍起になっているわけで、その様相は一見すると中学生の合唱コンクールのようだ。
ぼくが中学生だった頃、合唱コンクールでは声量の大きい男子生徒が、歌いたくない気持ちが勝ってしまい態度も悪い”ちょいワル学生”の声量すらカバーしてしまっていた。
「生産性だ」「効率性だ」と大合唱するさまは、まさにこれではないか。
大して真剣に生産性だとか効率性だとか考えたこともないような事業者まで「生産性を高めるために…」とか「効率的な業務工程を組むために…」といったことを言い出してしまっており、気質の真面目な日本語話者労働者たちまで合唱している。
ぼくには、どうもそう見えてしまって仕方がないのだが、俗的にも定着してしまったために、それほど生産性まで気にしなくても影響もなさそうなぼくのような末端人員まで生産性という合唱をしている姿勢を取らなければならなくなってしまっている。
いま世の中は、生産性という幻想に群がる死んでいることに気づけない生産性ゾンビが大量に発生しているのではないか。
余白のない”意味ある”情報しか取得してもらえない
養老孟司は自著「超バカの壁」で以下のように述べている。
養老いわく、都市化するということは意味のない自然空間を、人が考えた「意味」で塗り固めた空間であり、自然とは「脳で考えたものを具体的に形にしたもの以外のもの」となる。
つまり、意味を持たせることこそが住みやすく、暮らしやすい環境をつくり出すのであって、意味のないものは価値が低いものだといえてしまう。
仕事でいう意味とは「生産性」や「効率性」だ。
こと、生産性ゾンビが大量発生している我が国における「意味のある情報」とは、誰かの生産性や効率性を高める情報のことであり、見知らぬ誰かの満面に浮かべた笑みが立ち並ぶキラキラした見栄えの集合写真ではない。
いま、意味のある情報しか選んでもらえないのだ。
生産的で効率性の高さを引き出してくれるような、眩しい後光を放つような、ステキな文章で自分の、いや、組織を救ってくれるような、そんなすばらしいコンテンツを待ちわびているゾン…人しかいないのである。
職場とは何をするところか。 会社とは何をする組織なのか。
そんなキッツい精神論を真剣に問い続けられる従業員たちは、ドンドンと心が荒んでいく。当然だろう。
生産性や効率性の奴隷となった”カイシャイン”たちは、会社に売上をつくり、利益を残すことを徹底的に求めくる。その手がとどまることはない。骨の髄までしゃぶりつくす。
養老のいう「意味のあるもの」しか受付けられないのが現代人の病理ではあるが、反面、そこから外れた生活をすることは社会生活からの除外を想起させるため、そんなところに自ら身を置きたいと考える者は、はじめから「社会生活」なんてレールからはとっくに外れているだろう。
そんな情報がわんさかと溢れるインターネットがインフラ化した現代では「インターネット上に情報がない=存在していない」どころではなく、「出した情報自体を選んでもらえないこと」が存在していないのと一緒になってしまったのだ。
誰かにとって意味のある情報しか出せないことが幸福であるかどうかは書かないが、少なくともギスギスした世界であることに違いはない。
みな、余裕がないのである。
おわりに
「情報を発信する」
これは能動的な行為だ。
発信を辞書で引いてみると以下のように出てくる。
上記からも情報の受け手にとって「意味のある情報」を送り出すことが「発信」であることがわかる。
意味のある情報を能動的に発信する意志を持って送り出すから「発信」なのであって、決まりだからとか命令だからといって仕方なく出すものは発信などと呼ばないし、呼ぶべきでもない。
しかしどうだ。
インターネットを眺めてみると誰かにとって意味のある情報でなくても「意味のあるような情報」として扱われ、炎上しているケースすらある。
そこから類推するに、どうやらここまで記載してきた情報発信に関する議論は意味がなかったのかもしれない。
ではでは。
ゑんどう