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空気を読ませようとするのすら可視化される世の中ですか

 よく周りに「気を使わせる」人っていますよね。自らの考える基準に満たなければ機嫌を悪くしたり、人に強く当たったり。周りはその"被害"に合わないよう、気を使って、穏便に済まそうと考えるわけだけど、気を使わせるのにも種類があるし、気を使うのにも種類があるよな、と。

 「気を使おう」と思った場合、対象となる相手に対して何をしてあげたら喜ぶだろうか、と前向きな感情が思考の大半となる。ワクワクやドキドキの範疇に入るわけだ。

 逆に「気を使わなければならない」となった場合、その対象となる相手には後ろ向きな感情を抱いた思考が大半で、ある意味では強制力が働いているともいえ、精神的な支配下に置かれているともいえる。

 どちらが健全な関係なのかはいうまでもないけれど、この関係って未だに日本社会の中では当然だと思っている人たちもいるのでしょうかね。ちょっと疑問なんです。

 組織のトップが「右を向け」といったら右を向くのが当然なのか。左を向いたら、その左を向いた人間は思考や態度が組織のトップと合わないから不要人材として弾けばいいのか。でも、思考や態度がトップと合わないだけであって、その組織にはマッチしてるのかもしれない。

 組織のトップが意思決定の連続で、常に考え続けているのは体感をしたわけではないけど、理解はしてるつもりです。つまりは頭でっかちですね。

 組織のあり方自体がどんどんと多様化する中で、画一的で金太郎飴的な人材だけではなくなってきました。社員・従業員など表現することばは複数ありますが、組織内で働く人たちは顔があり、感情があるのだと認識され始めているから働き方改革なるものが断行され続けているのだと思いますし、それこそが根本的な理由ではないでしょうか。

 どういう意味かっていえば、会社と社員の関係性がフラットに近づいてきているのだと思います。

 (これから書く内容は空想上の会社です。)それは終身雇用や年功序列の世界観があった時代には、新卒で入った会社には多くの年長者がいて、その上には社長がいて。

 年長者たちは、いくら怖いといっても社長の下で働くしかない(と認識している)から、社長に慮り、それを下の年代で学校を卒業したての社員にも同様に「空気」を読ませるのが「教育」だと思い込んでいます。

 その「教育内容」に反発したり、そもそも意見をしようものなら、「異端児」的な見方をされ、組織内で邪魔者扱いされたりしますが、そういう人たちは客観的に組織を見れているので、すぐに組織を抜けて次の場所へ移動します。

 そうではなく、社長のご機嫌を取ろうと慮る人ばかりになった組織は、常に「気を使う」のが当然であり、少しでも「空気」が澱まないように行動するのが必須な状態に陥っていくわけです。

 なんだか息苦しいように感じますが、それが「普通」であり「当然」であり「常識」だったので、それに対して不満に思ったり、感じたりしても、公然と「おかしい」という人が「おかしい人」だったので、なんともいえない状態ではあります。

 じゃー、人に気を使わせてばかりの人は、本当に人望があるのかっていう点について、ぼくなりの答えは出ていません

 「組織が発展するのであれば、人望がなくても構わないし、代表である自分に人望がなくてもビジネスはできる。」なんて具合にいわれれば、確かにその通りかもしれませんし、実際にそれで5年、10年、15年、なんて時を重ねられる組織は、それを実践しているのですから文句のつけようがないのかもしれません。

 あとは個人の問題でしょうか。

 個人と組織が対等な関係に近づいてきているのであれば、その組織を選ぶ個人が少なくなれば、つまり働くのもそうだし、その組織の提供するサービスを受けるのもそうだし。

 組織文化がドンドンと透明化する、していく中でも選ばれ続けるためには、「人に気を使わせる」のが常態化していると、今後は苦しくなるのではないかなぁ、と感じている次第です。

 この世の中には「消費者」なんて人はいなくて、「労働者」なんて人もいません。「顧客」なんて人もいませんし、「生産者」なんて人はいません。

 みんな名前がついていて、表情もあれば感情もある、一人の人間が役割を担っているだけです。先ほどまで買い物をしていた人は、数時間後に買ったものを作ってる人になっていたりします。

 それでいえば、「従業員」や「社員」なんて人はいないわけです。

 組織が望む役割と時間を提供してくれる「人」がいるから、その人と契約をして、その対価としてお金を提供している、契約に基づく対等関係、それが労使関係なんてやつな訳です。

 それも口コミサイトを始め、様々な媒体に中の人たちの情報が流れていっていますから、情報化社会ってのはとことんオープンな世界を求め続けるのだな、と実感します。

 それによって、組織の「空気」が可視化されてくるわけです。ごまかしが効かなくなってきたのだともいえますが、そうなってくると、人望なんていらない、なんて豪語してた人が困るような気もしてきます。

 他人に対して空気を読め、と強要していた人たちが、逆に空気を読まなければならない時代になってきたのだと感じていますが、果たしてそれをできるかどうかって自らの変容を促さないとできませんから、難しいのかもしれません。

 じゃ、自分はどうしてたいのかって話で、ぼくはこのノートでもそうですし、Twitterなんかでもそうですが、「そのまんま」です。本音と建前ってのが大嫌いな正直にしか生きられない不器用な中年。それがぼくです。

 良くも悪くも、それを前提に生きるしかありません。素直に正直に。


 今日もお読みいただき、ありがとうございます。好き勝手に書いてますが、全て自戒を込めて書いてるつもりです。

ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo

#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #前向きな空気の溢れるエリア にすべく活動中。


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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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