入院生活32日目(最終日10/17)の記録
09/16から始まった入院の最終日。そう、最終日なんですよ!そうであって欲しい、なんて願望を抱かなくても、事実として最終日を迎えることができました。
無事に退院日を迎えられそうなことを嬉しく思うのと同時に、30日前の絶望的な感情も思い返してますが、改めて感じた内容を書いて、入院最終日の投稿とさせていただきます。
生の感情を丸出しでぶつけていい人間なんていない
当時、原因が分からないうえに、体が思うように動かせない状態に不安を感じながら、グルグルと世界が回り続けるめまいに苦しんでいたんだよな、と。
いま思い返しても、二度と戻りたいとは思えない絶望的な心境だったし、その感情を誰かにぶつけてしまえるわけでも、ましてやぶつけるわけにもいかないわけで。
感情をぶつけられるツラさを十二分にわかっているわけではありませんが、誰にだって「なんの言われもなくぶつけられる」理由はありませんし、ぼくにもぶつけるだけの理由はありません。
いくら自分がツライからといっても、家族はもちろん、自分以外の人間にありのままの感情をぶつけていい人間なんて存在しない。少なくともぼくはそう思います。
「それをぶつけられることこそ、正直な関係の証だ」
過去に、なんのことを相談したのかは忘れたものの、年長者からそんなアドバイスをもらったこともあります。そのときは「そうなのかもしれないな」と思ったのですが、数年後のいま、全くそう思えません。
信じる=考えることの放棄
ぼくの思考が、"子どもと生活をする"以前と比較して変容しているからだと思います。子どもと生活をするようになってから、誰であろうと敬意を表すべきだと強く認識するようになっています。
年齢に関係なく、性別に関係なく、人種に関係なく、ぼくと関係を持ってくれた人たちに対して、敬意を払わなければならない。
子どもだから、年下だから、中年だから、高齢者だから、男だから、女だから、外国人だから...
持ち出し挙げればきりがないほどに、違いを有する誰かのことを槍玉にあげるのは容易なわけで。
そんな風に接していれば、少なくとも自分が優位な立場にいるのだと信じられ、自覚が可能なのかもしれません。
ただ、"信じる"なんて行為は、"考えるのをやめた人間がとる行為"ではないか。そんな風に考えるようになったのです。
それをぼくは、過去の失敗から学びました。
敬意を失してしまう行動を取った結果、ぼくに関わる人たちが傷ついてしまったのを目の当たりにしましたし、誰でもないぼく自身が傷つけたのだと自覚するのに時間がかかってしまいました。
その理由は、いうまでもなく、自分の生の感情を丸出しにして他人にぶつけてしまっていたからに他なりません。
だから、一番身近にいる家族である妻や子どもたちはもちろん、ぼく以外の人格を有している人たちに対して、生の感情を丸出しでぶつけてしまうことは、相手への敬意を失っているのだと、今ではそう考えています。
演じる、とはまた違うような気がしますが、少し似ているかもしれません。
誰しもが、自らが抱える幻想的な自分(なりたい自分)と、他人が作る虚像的な自分(そうであって欲しいと思われる自分)の狭間で、苦しむ時期があるのだろうから、少なくとも演じるのに近いとは思うのです。
ただ、その通りではありません。他人の期待に応えるのと、自分の人生を生きるのはまったく持って意味合いが異なります。なりたい自分は生活の中にあるものだし、そうであって欲しいと思われる自分は、他人の認識の中にあるものです。
それはもう、すでに存在している場所からして違う人間なのですから、そこに苦しむ必要はありません。必要はないのですが、そうであって欲しいと思われる自分に近づこうとする態度までは、否定する必要はないのだと思います。
苦しんでいる姿は見たくない。
元気でいて欲しい。
笑顔でいて欲しい。
誰かの願いを受けて、そのようになりたいと考え、実際になろうとすることは、演じることでも、わざとらしいことでもなんでもなく、敬意を払うことなのではないか、ぼくはそう思うのです。
なぜなら、今回のぼくがそうだから。
みなさんから元気をいただいたのは間違いがないのです。
みなさんへ
入院生活を記録し続けてる中、まだ会ってお話をさせていただいたことがない方、各種SNSで交流をしていただいている方、久しぶりに投稿をご覧になって下さった方など、本当にいろんな方々から気にかけていただきました。
ご心配いただいたことから始まり、励ましの言葉をかけてくださったり、未来について共有をしてくださることもありました。中には、企画を立ち上げては実施した報告をいただいたり...
そうやって、みなさんが頑張ってる姿をテキスト上だったり、画像だったり、動画だったりと、多くを目にする機会にできました。
みなさんの努力されてる姿、がんばってる姿、うまくいかなくて悩んでる姿、全部ではないかもしれませんが、共有をしてくださっている部分から伺っておりましたし、そのおかげでぼく自身も勇気づけられました。
こうやってテキストを更新し続けることができましたし、めげそうになりながらもめげず、立ち直ってこれたのだと、真剣に思っています。
本当に、ありがとうございます。
遠藤、退院します。