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自分に出来ること出来ないこと、というお話

昨日の夜半、北海道で大きな地震が発生。

その被害状況が刻一刻と時間が進むに連れて明るみになってくる。7年前、東日本大震災が発生した時に感じた無力感は未だに消えない。多分、消し方もわからないし、消せないんだとも。

だけど、だからと言って何もしなくていいとは思っていないけど、何かができるって確かな約束みたいなことはできなくて。

だから東日本大震災の際には募金支援という形で"出来ること"をした。

被災地に行って災害救助などは到底できないことだし、行ったところで迷惑になってしまったら迷惑だろう。

お金を出すことで、少しでもそれが今でなくとも役に立つのであれば...そう思い、お金で解決した。

利用したのは"有料"の支援サイト。

なぜなら、「手数料を取ることが信用できる」と考えたから。

ただ無料で善意を集める、という点に僕は納得がいかなかったのもあるし、無料で支援をお手伝い、というところに募金をするということは、その中で動く人にお金が行き渡るのかどうかもわからないのが嫌だった。

だから僕は手数料を取る、と明示しているサイトを選び、募金した。

何が言いたいのかというと、背伸びをしてカッコつけるのではなく、自分に出来ることを着実にする方が災害復興は前に進むし、それが災害支援だと考えているから。

以前に「目標が高いことはいいことなのか、というお話」を書きましたが、そこでの論旨と今回は全く同一戦上の話です。

あまりにも高すぎる目標や行動指針を持っていると、本来の自分が歩ける範囲をはるかに飛び越えてしまいかねない。それはするべきではなくて、自分の歩幅にあった歩き方をしないと疲労感と焦燥感に潰されてしまう。

見栄を張ろうとした結果、本当にただの見栄になってしまい、本来できることでも出来ない状態にまで追い込まれてしまう。

それは自分以外のことをやろうとする際に、最も顕著に出ることなのかもしれない。

誰かのために出来ることは「自分が責任を持って出来ること」であり、見栄を張った結果、手に負えなくなってしまうことは出来ることでなく、ただの自己満足ということ。

災害支援、というある意味では甘味な響きさえ与えてしまう行動も、人によって「出来る範囲」というのが確実にあるはずで、それを見定めることが大事。

身の丈を削ってまでやることは本末転倒であって、出来ることを自分の責任のもとにやる、ということが大切。

そんなことを考えています。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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