人生を振り返ってみる④(小学校5~6年)
担任と学校生活
2年間の厳しい修業を耐え抜き、次の担任はムキムキゴリマッチョの体育教員となった。このおっさんは何もかもがパワフルでいかつく、10歳そこいらの少年たちにとってはとてつもない畏怖の念を抱く存在であった。しかし、熱血漢ながら何ごとにもさっぱりしている体育会系ノリの性格にとても水が合い、これまでの人生においてもトップクラスの楽しい期間として思い出に残っている。
彼は体育教員らしく体を動かすのが得意で、放課後に生徒たちとサッカーやドッジボールをするのが常であった。サッカーボールを校庭の外まで蹴り飛ばす規格外のパワーには、大谷翔平のバッティング練習を初めて見た選手が何やこいつ…と口をあんぐりさせるように、世の中にはこんなとんでもない人間が存在するのかと心底感嘆したものだ。一方、通常の教科指導にはすこぶる無頓着で、やたらと雑談や自習が多く、それがまた年頃の男子から熱烈な支持を集める要因となった。
また、3〜4年生時の話し合い解決とは180度異なり、クラス内で起こるありとあらゆる問題をビンタ一発で終わらせるストロングスタイルがとても潔く明快で、やんちゃ盛りの少年たちにぴったりとハマっていた。ビンタと言っても相当に手加減されていたが、クラス内でいじめが発覚した時は怒髪天を衝くがごとく怒り狂い、鬼のフルスイングで生徒をぶっ飛ばしていた。この光景があまりにも恐ろしく衝撃的だったために、以後いじめは完全に撲滅されたのだった。現在、このような先生は絶滅危惧種と思われるが、古き良き昭和の象徴として、筆者の心に深く刻まれている。なお、残念ながら女子には絶望的に不人気であった。そらそうよ。
親友
数少ない親友と呼べる友人ができたのもこの時期だ。筆者はどの環境においても割とすぐに周囲と仲良くできるタイプであったが、自我が強くあまり他人に依存しない性格のため、友人関係が長続きしない。環境が変わるとともに、自然と疎遠になってしまうのだ。人と人との繋がりは、それを維持せんとする互いの意志によってのみ継続するものだと考えている。逆に言えば、相手にずっと関係を繋いでいきたいと思わせるほどの魅力が筆者には備わっていないのだろう。また、向こうにとっては「必要とされている感」が感じられず、一方通行になりがちなのもマイナスポイントだと思われる。おそらく自分は相対的に幸せの沸点が低く、普段の生活で事足りているから、わざわざそこを人に埋めてもらう必要がない。美味しいものを食べて、ゴロゴロしていればそれだけでハッピーに過ごせるのだ。おまけに、ジャイアンツが勝てば喜びは倍満、三倍満である。
学習塾
確か5年生の途中からだったと思うが、週2で学習塾に通い始めた。学習塾どうこうより、これによってそろばんの回数が週3から週2に減ったことが嬉しくて仕方なかったことを覚えている。この塾はのちに関西有数の大手進学塾へと成長していくのだが、当時はまだ1校のみでこじんまりとしていた。しかし中身は虎の穴そのもので、入塾テストで基準に達しない者は門前払い、合格者は学力に応じてクラス分けされ、定期的に実施されるテストの結果は全て入り口の目立つ場所に掲示、教室の席次は成績順、という現代の受験ガチ勢には馴染み深いであろう受験マシーン養成プロセスがすでに確立されていた。成績上位者はいつも同じ顔ぶれで、すごい奴らがいるもんだなぁと他人事のように日々を過ごしていた。成績はそこそこ良く、事務のおばさんに中学受験を勧められたりもしたが、そんなものは別世界の話とにべもなく、普通に地元の公立中学校へ進学するのだった。
ボーイスカウト
さて、3年生で入隊したカブスカウトはみんな仲良く和気あいあいとしていたが、6年生に上進したボーイスカウトは完全なる縦社会で、小学生にして早くも上下関係の厳しさを知ることとなる。ボーイスカウトは小6から中3までの4世代で構成されているのだが、小6の小坊主にとって中3の少年は心身両面において圧倒的に大人で、平伏する以外の選択肢がない存在であった。不幸にも、当時の中3世代は自己中で無慈悲で優しさのかけらもない正真正銘のワルで、この後1年に渡って暗黒の日曜日を送るハメになった。そうして早い段階で社会の理不尽さを知ったことにより、同世代よりもはるかに強靭な精神力が身についたのは皮肉な話である。それにしても、本当に最低で最悪な奴らだった。キャンプのクソ重い備品を全て運ばせ、テントの設営から食事の支度から後片付けから何から何まで延々とこき使い、配給のおやつを独占し、我々はさながら奴隷のようであった。死ぬまで毎日脳天に鳥のフンが直撃する刑に処してやりたい。
⑤へ続く。
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