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6西へ感謝を込めて(私の入院体験記)1『序章』
眩しい場所で寝かされた上で左右からの呼びかけに応じないとならない。
『点滴に薬品を投入させて頂きますね。』
『はい、、』
『座薬入れさせていただきます。』
『はい!(座薬!?あれ?いつの間にパンツを脱いで天使になっていたのだろうか?)』
とりあえず返事をして、自分はパンツを脱がされていたのだろうか?その回答や如何に!?と言う場面で、私の意識はぶつりと途絶えた。
ここからは少し話を巻き戻してみたい。この話は私が腰の手術(分離すべり症・脊柱管狭窄症)を受けた現実の話をベースにしたフィクションである事をご理解頂けたらと思います。
約3年前からの腰痛
私はのんきにブラブラと買い物をしていた。特別な買い物でもなく、極々日常の買い物。そんな時に、ふと、いつもと違う腰の痛みを感じた。
最初に特に気にする必要もない、放っておいても直る程度の腰痛だろう。と考えていたのだが、歩いているだけで吐き気が痛みに変わった。いつもと違う。予定を切り上げ自宅に帰宅をして、何となく自宅に残っていたシップを腰に張り付けて、やり過ごす。
残念ながら翌日にも外せない予定が入っていた為、病院で検査をしたのは、翌々日となってしまったが行った東松山市民病院が不味かった。
市民病院と言うのは実に厄介な場所で先生が固定をされておらず、人事異動宜しく、しょっしゅう先生が変わる。
この時に見てくれた市民病院の最初の先生も、もうやる気ないでしょう?と患者の私から見たら、少なくともそう思える位に、私自身の状態がどうなっているのか?今後はどうなっていくのか?そうした説明もないまま4回程度の受診で別の先生へと受け持ちが変わった。
ちなみに、この初期の状況で、私は座る事も出来ずに横になっている事しか出来ない状態。歩く事は出来ても、燃えるような痛みが右のお尻を含めた右脚部に発生をしていて、それまでしていた自分の仕事を一旦中断をせざるを得ない状態になった。そして結果としては辞める。と言う形に繋がっていく事になった。
初期はヘルニアから始まる
最初の先生の時に撮影をしたレントゲン写真、MRIでの撮影についても、二人目の先生になった際に見せて貰った。素人ながらも自分の症状を色々と調べていたら、どうもヘルニアの馬尾型。と言うヘルニア界隈のエンペラー的な立ち位置にいる存在らしい事が分かってきた。
ヘルニアは一般的に保存療法と呼ばれる方法で概ね半年の間、薬物療法で様子を見る。そして半分程度がその半年の間で痛みが和らぎ、寛解と言う状態になり、回復傾向にある。と言うのが大まか統計ではあるが、残念ながら私には、それが外れてしまったらしい。
半年が経過をしても痛さは残り、強烈な痛み止めを服用してようやく日常生活を送る。と言うレベルになっていた。
この時には二番目の先生に診てもらっている状態で、二番目の先生としては、恐らくは手術。と言う選択肢があったのではないだろうか?ただ、本当にタイミングが悪かった。
私は免疫疾患系の病気を抱えており、ステロイドの服用をしている。このステロイドの副作用としては大きな所では、『糖尿病』と『骨粗しょう症』があるのだが、幸い私は『糖尿病』については数値としては余裕綽々となっていたのだが、『骨粗しょう症』の方が悪化をして、正式な検査の結果、『骨粗しょう症』と診断が下される数値になってしまった。
この『骨粗しょう症』の結果が二番目の先生の決断を大いに悩ませる結果となったのは、後になって私自身の知る所になるのだが、そうした事が私にはよく分からないまま、痛いのに薬物での対処療法だけで、もう少し様子を見ましょうを繰り返す先生に、段々と絶望感を感じるようになっていた。
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いい加減にしてくれ!
二番目の先生から三番目の先生に引継ぎが行われた。この時のタイミングで発症から約二年が経過をしていた。
作業が出来なくなった私の収入は途絶え、貯蓄を切り崩し毎日。月に一度訪れては、痛いかどうかを聞かれて、『痛い』と答えては薬が処方をされておしまい。
症状としての痛みも取る事が出来なければ、メンタル面にも良くない日々が続いていて、鬱憤が蓄積をされていたのですが、中々途中でいきなり吐き出す。と言うのは難しい。そう考えると三番目の先生になる。と言うタイミングは実に良い。現状と今後の見通しを改めて聞くにはジャストなタイミングだろうと思えた。
二番目の先生が、何となく私から見てのらりくらりと質問をはぐらかしているように見えた事について、絶対に答えて貰うからな。と言う意気込みで。私は三番目の先生に大意としては以下を告げさせて頂いた。
『様子見にはうんざりしている。早期の手術を求める。』
私の意気込みに答えたくれるように、三番目の先生は私自身が納得できる回答をいくつか提示をしてくれた。
本来は手術をしないといけないだけれど、事はヘルニアの摘出手術ではなく、鉄を入れてボルトで固定をする手術になる。
その為、検査結果で正式に骨粗しょう症のラインを超えてしまった事が手術を躊躇させる結果になったのではないか?これは、ボルトを埋め込むのに、堅い箇所に埋めるのか?弱くなっている極端な話、砂上に埋め込むのか?
当然ながら堅い箇所に埋める方が安全性が高く、今後もステロイドの服用を継続していくのであれば、手術をしても、ボルトが将来的にずれて、再手術をする可能性が極めて高いだろう事。
そのリスクを考慮すると、選択肢としては可能であれば、薬で痛みが抑え込めるのであれば、そうしたかったのだろう。と言う話も聞かせて貰えた。
途中、私自身は間欠性跛行も発症をしていて、歩いて10分もしないうちに歩けない位に右足に力が入らなくなり、日常生活すらままならない状態であったのだが、この間欠性跛行で言えば、5分歩けなくなったら手術をしましょう。と二番目の先生も言っていたのだが、それだけ歩けなくなったら、病院にも行けねーよ。と私は心の中で毒づいていた。
そして無事に5分も歩けなくなった時点で三番目の先生に交代となっていたのだ。ちなみに病院に行くには、5分も歩く必要はなく、2分歩けたらギリギリ病院に辿りつける事も、自分の中で判明をしていた。
いずれにしても、三番目の先生とは、これまでの二人の先生とはコンタクトを自分なりにしっかりと取る事が出来たのかな?と思う。
これまでの先生が残した私の症状の資料に目を通して、MRIの画像を見ながら、『(背骨と背骨にあるはずの軟骨が)完全にないねー!はは!』と何が可笑しい?と患者である私を大いに悩ませてくれる一癖ある先生ではあったが、方向性として手術。と言う事で話がまとまり執刀医との予約も済ませる事が出来た。
執刀医と対面も絶対に手術はしないと拒否をされる
三番目の先生が東松山市民病院の外科の先生の予約をしてくれて、ようやく手術に向けた第一歩となったのだが、ここで何だか引継ぎがきちんとしていなかったみたいです。
先生は私の症状の描かれた資料やレントゲン撮影、MRIの検査をパソコンの画面で見ながら、『うん。。手術しましょう。早い方が良いでしょうから、この日にちはどうですか?』と、私が二年ほど待っていたセリフがここまで簡単に出てくるものか?と軽く感動をしながらも、先生に対して『ありがとうございます!その日程で大丈夫です!』と同意と謝意を伝えた所、先生から最終確認で前述をしたステロイド系の薬の量の確認をする為、『プレドニンは5㎎で合っていますよね?』と聞いてきたので、『いや、15㎎ですよ。』と何気なく素直に回答をした。
その途端に明らかに雲行きが怪しくなってまいりました。と言う表情をしながら、執刀予定であった先生が『日本中を探しても今の状態で手術をしてくれる医者はいません。』とあまりに無慈悲な発言を言われ、私は困惑をした。
執刀予定であった先生が考えながら、『プレドニン5㎎が最低でも3ヶ月。これが手術をする最低限の条件になります。統計的にも感染症になる確率が1割はあると思ってください。仮に15㎎の今の状態で手術をしたら、ほぼほぼ感染症になります。』
ようやくとんとん拍子で話が進んできたのに、ここで止める訳にはいかない。と考えた私は、リスクとプレドニン5㎎を3ヶ月継続したら手術をする確約が欲しい。と言う旨を伝え所、リスクに関しては専門用語を使ってきたので、私自身としても良く分からなかったので、『要するに下半身不随ですか?』と途中で遮って質問をさせて頂いたら、何が嬉しいのか?『そういう事ですよね。』と笑顔の先生がいた。また、万が一のケースを想定して、東松山市民ではなく別の病院で手術を受けた方が良い。紹介状に関しては、プレドニン5㎎が3ヶ月継続をしたら渡す。と言う事で話としてはまとまった。
あまりにも、短時間でありながら、話の振れ幅が大きかった事や、最悪のケースのリスクの大きさに戸惑いつつも、話として止める事なく、確実な前進を掴む事が出来た事に対して、ほっとした私がいた。取り急ぎ、プレドニンを処方してくれているクリニックの先生にも状況を伝えて、減少をなるべく早めに減らしていく方向性で相談をし、早速その日よりプレドニンの量を減少していく事にした。
どんなに速くても年内。無難に考えて来年でしょうね。と言う市民病院の医者側の予想を覆すだけの早業を繰り出し、無事に年内手術に淡々と薬の量を減らしながら、埼玉医科大学総合医療センターでの手術も決まった。
痛みや痺れがどこまで取れるかは分からない。でも、自分自身の中でやるべき事は全てやれるだけの事はやった。と言う気持ちにはなれるし、その気持ちが人間本来には大事な要素だろう。と私は考える。しかも人生を狂わされた症状でもある訳ですから。
紹介状を持って埼玉医科大学総合医療センターへ
実を言うと、私は持病の件で一度。そして突発的な盲腸の発生で一度。都合二回、すでに埼玉医科大学総合医療センターで入院をしている。この10年内での出来事となるので、今回の紹介状を持って、手術と入院が決定をしたら、無事に三度目の入院になる訳で、中々そうはいないよ。と言うレベルになりますね。
とりあえず、こちらの埼玉医科大学総合医療センターでは手術の決定までに三人の先生(主に二人の先生)の診察を受ける事になった。
最初に受診をしたのが後から聞いたら、教授だったみたいで、簡単な受け答えの質問などをしたのですが、お決まりの質問でもある、タバコは?の質問で様子に若干の異変が。
私は正直に『1日二箱です。』と伝えると、『え?二箱?あのね、手術をしても、元には戻らないんですよ。今、タバコを辞めても肺が元に戻るか?と言ったら、戻らないでしょう?』と久々に大人のガン詰めを受けました。別に手術で元に戻る。とは思っていなかったのですが、もう泣きそうを通り越して、パニックを起こして、良い年をしてオシッコを一面に漏らしてやろうか?と思える程の恐怖感を味合わせて頂きました。
その後に執刀医の先生と面談を行い、改めてMRIの検査をして、その結果を見てからの最終判断と言う事になり、後日にMRIの撮影、そしてその後に外来の予約。と効率良く日時が組まれていく。どちらも消化をして、執刀医の先生から手術および、入院の日程が伝えられて、その詳細については別途別の入院相談センターで受ける事になったのですが、執刀医の先生からの言葉で『では、次は手術室で会いましょう。』と言うものだった。何かカッコイイセリフだったので、真似して日常生活でも使ってみたのですが、誰からも何も反応はありませんでした。
様子見、様子見、様子見。で、何か良くなったのか?と思える期間は終わり、ようやく次の段階に進む事になった訳だが、自分の意思で持って、もう手術をする方向性で考えて貰いたい。と医者に伝えてからは、予想よりも時間は掛かったものの、きちんとその方向性で動き始めるのだから、もっと早くに『一体、東松山市民病院の医者は人の時間の事をどう考えているんだ?私は今は何もしていないから、貯蓄を切り崩して精神的にもダメージが出ているの。分かる?』と一喝をしていたら、もっと早くに事が進んでいたかもしれないな。と軽い憤りを覚えた。
とにかく手術が決まり、その為の入院が決定をした以上は入院の準備を進めていかないといけない。そして久々にガン詰めをしてきたお医者様から『手術に向けて、禁煙をしろ。しないと手術はしない。』と言われていて、密かに約束を守り、これを書いている時点では退院をしている訳ですが、退院をしてから、試しに二箱吸ってみたのですが、禁煙の為に吸い始めた、ニコチン・タール無しのVAPEの方が味が濃いので、完全ではないかもしれませんが、ほぼ禁煙状態が継続をされています。教授は私はもっと褒めてくれていいいと思う。
埼玉医科大学総合医療センターへ入院スタート
自宅から片道二時間。入院と言う稀に起こるイベントの為に荷物感がまだまだ自分の中でハッキリ分からない事もあり、結果としては持ち込み過ぎた。となったが、今回の病棟は6西と言う事を病院から告げられた。盲腸の時と部屋の細部に少し違いがある事に気が付いて、その理由は何だろう?と自分の頭で考えていたら、あー、そうか。。症状によって患者を分けているんだな。と言う事が判明。盲腸の時には男子トイレがあったのですが、今回は私自身は腰の手術。と言う事で、基本的には歩行困難者が中心の病棟となる為、トイレは全室個室となっていた。
今日から、ここに二週間から三週間。お世話になるのか。とぼんやりと考えていながらも、どうしても頭から抜けない要素があった。それは入院予定表を見る限り、カテーテルが最悪二日は抜けない状態で、車椅子での生活が予定されている事であった。
盲腸の手術ごときであれば、翌日から痛いなー。と言いながら、ブラブラとする事も可能であったが、どうやら今回の腰の手術はそうは行かないレベルの手術となるらしい。
最初の頃に医者から言われたヘルニアと言う症状はいつの間にか、分離すべり症と命名が変更をされていて、何となしに素人考えとしてあった、ヘルニアの手術であれば千切れた軟骨を取り出して、骨と骨の間に軟骨の代わりを注射器みたいなので、注入をして終わり。と言う内容では全くなく、骨と骨同士をくっつける為に鉄を使ったり、骨をゴリゴリと削る。と言う内容になっていた。一体いつからそんな状況になってしまったのか?私には分からない間に色々な物が通り過ぎて行ったみたいだ。
入院をしてからも、手術の日付は分かっていても時間は分からなかったのだが、間もなく朝一番での手術である事。前日から食事制限に加えて、水分の制限がある事などが、入院部屋で荷物を整理している時に告げられていく。
入院をしてから手術まで二日空いていたのだが、どこか心はソワソワとしていたのと、仕事とは言え相手の方が自分の名前を把握しているのに対して、自分が相手の事の名前などを把握をしていないのが、何となく申し訳ない気持ちで、どことなく居心地の悪さを感じさせた。
これまでの入院は最初の入院がステロイドパルス療法の為で、これは期間も短いのと、入院中も寝不足で、退院をしてから10日程度。自分でも何を言っているのかが分からない状態が続いた程度で、大した事はなかった。(ステロイドパルス療法は危険性もある投薬療法になります。家族がステロイドパルス療法を行った場合には、気を付けて言動などに注意を払ってください。)
次の盲腸も緊急性の入院となった為、相手の看護師さんの名前を覚えないと。と言う余裕はどこにもなかったのだか、今回は手術を伴う、多少期間の長い入院。と言う事もあり、看護師さん達の名前を覚え切れていない自分に人として無礼な事をしているのではないか?と思わずにはいられなかったけれども、どの看護師さん達も当たり前の話ではあるが、仕事中で、キリキリと動いているので、名前をノートに書き留めて特長を記して。と言う時間を与えられる事はなかった。元々、人の名前と顔を一致させるのが苦手ではあったけれど、加齢とともに益々苦手になっている自分がいた。
チームで手術に当たってくれるのであれば、何か苗字と顔写真だけでも掲載をされているプロフィールみたいなのがあれば良いのにな。と言う気持ちが浮かんだりしましたね。手術をしてくれるチームはすでに意思疎通が出来て、チームとしての感覚が出来ているのだろうが、肝心の自分がそこに加わっていないのが、何だか少し残念な気持ちになる。手術をする側はそうした事は考えた事もないかもしれないけれども、受ける側も、この人達が支えてくれるんだ。頑張ろう。と言う気持ちになれるから。
手術へと向かう
気持ちとしては斜め下を向いている気分。腰が厄介な事になり、それで仕事が出来なくなり、貯蓄を切り崩しながらの生活。手術が終わり腰が良好へと向かうのであれば、もう言い訳は出来ない。何となくだけれど、気が付かないうちにぬるま湯に浸かっていたのから、出なければならない時が近づいてきた。それが手術日を迎えた日の率直な自分の気持ちだった。
ビシッと現実と言うものを見据えて前を向かないといけないけれど、それが出来ない。出来ない自分に対しても悔しさが込み上げてくる。ただ時間は止まらない。一瞬だって止まってくれやしない。手術時間を迎え、一緒に同行をしてくれるスタッフの方が部屋までやってきた。
『少し、距離的にありますが歩いていきますか?』
『えー、大丈夫ですよ。足の動かし方が、腰の悪い人みたいにすっかりと定着をしてしまっているみたいで、それを見られるのは良い気がしないですが。』
そんな大した内容ではない会話をしながら、割と最近になって新設をされた、埼玉医科大学総合医療センターの手術室がある地下へと向かう。
歩きながらで、具体的に今振り返っても何が。と言うのを文章化をする事が困難ではあるけれど、日常生活ではまず見る事がない機械類などがそこかしこにあり、視覚的に自分の日常に見る景色との違和感に戸惑いつつ、脳がそれを処理しきれないうちに、自分の手術をする部屋の前にまで到着をした。
そこには完全に準備を終えた、手術に当たる執刀医の先生のケアをする責任者?らしき、若く細身で美人であろう女性が待ち構えていて、自己紹介をしてくれたのだが、あー、はいはい。私はこの綺麗な細身の女性に全部を見られる訳ですね。はいはい。とその事にまずは頭が行ってしまい名前を覚える暇もないまま、私は台の上に仰向けになった状態で体を預けた。
こうして、話としては最初の冒頭部分へと繋がる形となる。
続きは以下から!
著者プロフィール
#名刺代わりの本10選
— 読書、時々ガンプラ (@dodokusho) June 20, 2023
2023年6月に一部更新。 pic.twitter.com/JJkCOJ2YsD