愛媛のしっぽで暮らす。みかんアルバイター体験記 4
2011年11月~12月、愛媛県西端の伊方町でみかんアルバイターとして暮らした1ヵ月半の記録。
まんじゅうとちりめん
ちょうど1年前。
佐田岬半島のプラスチックごみ拾いのイベントに参加したとき、伊方町でちりめん漁を営むKさんと菓子舗店主のTさんと知り合った。
二人とはずっとSNSでつながっていて、こちらへ来たらぜひお会いしたいと思っていた。
最初の休みの日には自転車でTさんの菓子店へ向かった。
お店で名物「うにまんじゅう」をいただきながらいろいろお話しするうちに、Tさんのお店がある地区のみかん収穫ボランティアに関わっているグループが、シェアメイトの学生さんが所属している団体であることが判明。
アルバイターとして伊方町で初めて出会った私たち二人に、共通の知り合いがいてつながるとは!
Tさんは仕事を片付けた後、私の自転車を車に積み、シェアハウスで学生さんを誘い、山の上の素敵なお家へ案内してくださった。
そこは広大な庭のある、全面ガラス張りのおしゃれな家。
庭は自由に散策できるよう来客に開放され、20年前に神戸から移住された笑顔の素敵な女性が暮らしている。
4人でお茶を飲みながら夕方までおしゃべり。
窓からは暮れなずむ夕日の中に風車のシルエットが浮かび、その美しさに見とれた。
「年齢を重ねることは、素敵なことよ」
彼女の言葉が心地よく響く。
そして一昨日は、「遅ばせながら」とKさんが地元の人たちと共に私たちの歓迎の宴を開いてくださった。
Kさんの釜揚げちりめんは昨年もいただいたが、最高に旨い。
今回はなんと生ちりめんも用意してくださった。
鯵の刺身、伊勢海老、おでんと手料理でもてなしてくださったのは、Kさんの同級生でKさん同様議員さんでもあるYさんと奥様。
大工の棟梁やみかん農家の数人も参加して、飲む、食べる、しゃべる、笑う、歌う。
学生さんも私も「もう1カ月過ぎたなんて早すぎる。あと2週間か……」と悲しくなってくる。
元気の源は山での仕事
私たちがお手伝いしている農家さんたちの年齢は60〜70代が中心。
もともとは農協や役場に勤めながら親のみかん仕事を手伝い、退職後にみかん専業でやっている兼業農家が多いようだ。
三代目となる30〜40代の若い世代の息子さんたちも、最初は勤めに出ていてUターンし、後継ぎとして就農した人がほとんどだ。
今年度から私たちアルバイターが加わったとはいえ、収穫に人手の必要なこの時期、やはり重要な戦力となるのは、家族や親せき、地元のお手伝いさんたち。
年齢層は高めだが、元気だし、手は早いし、力はあるし。年齢を聞いてびっくり!な方も。
「お手伝いさんの中では、たぶん最高齢やないかな」と言われても、見た目ではわからなかった、スマホもタブレットも使いこなすお母さんは86歳。
山の上の方にある農園まで、キッツイ傾斜の地道をすたすたと登って行かれるのは85歳のお母さん。
「あぁ、しんど」と言いつつも、ハサミと籠を持ったらすぐに収穫モードに。
ある時、山からの帰り道、一人で歩いて下りていたお母さんを見つけ、
「乗っていき。下まで送るけん」農家さんが乗用車の後部座席に座らせた。
「歩いて帰ったら、どのぐらいかかるん?」
「2時間ぐらい。息子が終わるの待っとったら遅うなるけん」
「お母さん、いくつになった?」
「歳なんか、いちいち覚えとらん!」(おそらく90歳近いと思われる)
「元気やねぇ。死ぬまで山に行くつもりなん?」
「生きとる間は山へ行く。山しか知らんし、山は楽しいけん」
「死ぬまで」を「生きている間」と言い直すポジティブさ。
2時間歩いて帰る強さ。
あぁ、私は足元にも及ばない。
はなと灯台
最後の休みの日、ずっと行きたかった佐田岬灯台へ自転車で行くことにした。
住んでいる集落からは約20km。灯台は佐田岬半島の西の先っちょにある。
昨晩は、灯台へ行く道の途中にある道の駅「はなはな」でクリスマスツリーの点灯式があり、5分間だけ花火が上がるというので車で連れてもらった。
その「はなはな」から灯台までさらに15km。そこからが結構大変だった。
下りが続き軽快に飛ばしていたら、途中からはるか山の上までキッツイ上り坂が続く。
せっかく下ったのに、また上がるんかい!な道を繰り返し、ようやく灯台の駐車場に辿り着く。
そこからきれいに整備された山のなかの遊歩道を歩くこと15分。
ようやく灯台の下へ。
中には入れないが、青い空に白い灯台が映える。
四国最西端だ。
ここまで来ると、もう大分県はすぐ目の前。大分へはフェリーで70分だから、半島の東の八幡浜市へ出るより船で大分に渡った方が近いし早い。
そういえば、仕事中に聴いているラジオも、大分放送が多い。農家さんの一人が「大分に1日で治療してくれる歯科があるので、忙しい時はそこへ行く。日帰りで治療できるので助かる」と言ってたなぁ。
白い灯台の下で持参したみかんを一個食べ、また来た道を戻り、「はなはな」でお昼ご飯を食べた。
「はな」とは端とか縁という意味だそう。
みかん山でも石段からはみ出た枝から収穫してると、「はなは崩れやすいから、足もと気をつけて!」と言われたりする。
豊後水道でとれる鯖や鯵は、「関サバ、関アジ」としてブランド化されているが、同じものでも佐田岬の三崎辺りでとれるものは「はなサバ、はなアジ」と呼ばれているらしい。
同じ魚なのだけれど。
休みの日を利用して、東へはランニングで西へはサイクリングで、佐田岬半島を楽しめた。
念仏講と半島の歴史
一昨日の朝、「今日の夜はMさんところで女子会ね。お念仏のときおでんを作ったのがたくさんあるから」と、Hさんの奥さまからお誘いが。
この辺りは昔は土葬だったため、人が亡くなると穴を掘るのに人手が必要で、そのために近所の何軒かが集まってお手伝いをしていた。
そのメンバーが年に数回集まって交流するのを念仏講というらしい。
女子会といっても、私と学生さん以外は60〜70代。
おでんをいただきながら話すのは、家のこと、結婚のこと、好きな歌手の話など、やっぱり女子会なのだ。
そして悪天候のため急遽仕事が休みになった今日のお昼前。
「兄夫婦が来てるからお昼を一緒に」とHさんからお誘いが。
手作りのバラ寿司や唐揚げをいただきながら、Hさんのお兄さんが松山で見てきたという「河野兵市〜一人北極点をめざした旅人〜展」の話に。
伊方町出身の冒険家・河野兵市は、日本人で初めて単独徒歩で北極点に到達した人。
河野さんは2001年、北極点から愛媛に向かう1万5千キロの旅の途中に氷上で遭難死している。
彼の旅の資金集めに協力したのが、当時役所にお勤めだったHさんたちだったそうだ。
70代のHさんたちの昔話に花が咲き、昭和51年発行の写真集『海と太陽の間 佐田岬半島の人々・風土』(新田好)を見せてもらった。
「小さいころ牛を飼っていて、自分らは餓鬼やいわれ、牛の方が大事にされとった」
「浜で牛を散歩させて海水で洗った」
「おばぁさんの頃は山からみかんを背負って運んでいた」
という話は、収穫中に農家さんたちから聞いていたが、当時の様子が写真に残されている。
「テトラポットができるまでは、浜に海亀が産卵に来て、その卵を食べたけどまずかった」と話していたのは75歳のMさん。
そしてなんと、この写真集に20代の頃のHさんが写っていた。
当時は賑やかだったが、若者は出ていき、高齢者は死んでいく。
「あと数十年もしたら、この辺りには誰も住んでないんとちゃうか。人口が減っていくのは田舎からやから」
Hさんのお兄さんの言葉が印象的だった。
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