「学校についてみんなで語る場」-9月26日アーカイブ−#「学校の仕組みや制度について」

 議論について、主題に添ったり派生した問題が現れたりと流動的な部分があります。目指すところは結論や方法を見つけることではなく互いがどう捉えているかを認知するところにあると考えます。

議題「学級の人数について、現在は35、6人の子供が一つの学級にいるがそれは適正かどうか」

※アーカイブでは名前を伏せていきます。参加者はA B C…として、立場の名前は付けますが、必要のない時は付けません。

<登場人物>   A(保護者)B(教員) C(教員) D(私塾関係者)

A(保護者)「1クラスが30人以上の学級は適正ではないと思う。子供の性格は様々で、そこで居場所がない場合はかなり苦痛の様である。自分の子供からは人数の少なさが居心地が良かったようで、「分散登校さいこー」との発言があった。自分の子供は居場所がないなりに登校したが、ちょっかいをかける他の子供に出会い登校ができなくなった。別室登校なら通えるかもしれなかったが、希望が通らずその後近くのフリースクール に通った。」

B(教員・運営)「分散登校での子供の反応「さいこー」には日々感じることがあったのではないか。フリースクール については賢明な判断だと感じた。学校の対応については希望が通って欲しかったと感じた。学校では人間関係も含めて子供を見守れるようにしたい。また、必要であれば個別の場所を提供してあげたい。」

C(教員)学級の人数については難しい問題である。30人以上の一人一人の子供の変化を察知して適切に声をかけ集団に育てあげるのは簡単なことではないが、それができなければ学級担任は務まらない。37名の担任だが、丸付けや成績、その他事務処理どれをとっても10名違えば年間でかかる時間は何時間も違うだろう。

しかし子供からしたら、初めての社会で気の合う友達を見つけるためには学級の人数は多い方がいいだろう。また、自分と合わない子供と出会うこともあるかもしれない。公教育では様々な子供がいて、様々なシチュエーション(気が合う人もいれば、苦手な人や、努力しても好きになれない人)に子供自身が対応(嫌なことを嫌と言える、うまく話せるようになる、弱音を話せるなど)できるようになる。それらの経験が学びとして生きていく力になっていくのではないか。また社会に出てお金を稼いでいく時に力になるのではないか。人としてやってはいけないことを許さないことが前提であるが。不登校対応について、学校の対応には別室登校の他に、他のクラスで授業を受けるなどの対応をとったことがある。

A 愚痴のような発言ですみません。先生には感謝している。不登校期間に声をかけてもらえたことはありがたかった。「別クラスに登校」とう方法は知らなかった。もしかしたらその方法をとっていたら不登校期間なく登校できていたかもしれない。子供は現在多少の休みはあるものの中学校に通っている。今回の意見交換の中で学んでいきたい。

B cに対して 10名違えば様々な業務がはかどる所は非常に同意する。学級の人数を減らせば、教員の過労もなくなるのではないか。子供たちの人間関係については、aの考えでいくと学級内よりも学校全体での友達作りはどうかと感じる。現在は同学年の37名の集団だが、異学年での交流によって良い関係を気付ける子供もいるだろう。学級で過ごす時間が長いと関係が固定化されてしまうのではないか。学校の対応について、学級経営に対して緩さをもてば、学校の価値観も変わるのでは。学校の目標としては、経済活動(お金を稼ぐこと)のできる子供の育成を優先するのか、公教育だからこそ、個人の有意義な人生の過ごし方を考えるべきではないか。

 aに対して 保護者が学校での様々な過ごし方を知れるのは良いことだと感じた。それぞれの立場の意見は大変価値がある。みんなが納得する場作りになるだろうと感じた。

D (私塾関係者) 自分は教育について極端な立場をとっているので反発も多いかもしれないが、現在の公教育の制度では、どの程度子供の人生を決定していいのかが曖昧ではないか。教員の労働の異常な量も制度の曖昧さが影響しているのではないか。

何より、「逃げ場」がないのが問題だと考える。公教育の制度は現代の日本社会の風潮である「多数の人の幸福のために、少数の人の不幸はかまわない」という価値観の上に立つのではないか。旭川での残忍ないじめの事件に関して、学校管理職の立場の人が発言した(とされる)「10人の子供の未来と、1人の子供の未来は、どちらが大事か?」という言葉を思い出す。幸福は量ではないと多くの人は理解しているはずだが、「幸福は量だ!」と暗黙の了承を求めてくる。こうした風潮は「教育の退廃」ではないか。

「逃げ場」というのは、少数になった人が別の場所(家庭学習、ゲームの中、公園、図書館など)で生き生きと自己を発見する機会のことを意図する。いろいろな場所に可能性があり、それを「教育の場」と捉えたらどうか。この場において「子供の幸福」や「社会」「教育」などの根本的な議論が立場を超えて民主的にされることが楽しみである。

C aに対して 愚痴を吐くことは大切である。母親が子供の問題に対して一人で抱えてしまっていることは多い。中学で登校できていることは嬉しい。学校ではクラス替え時に子供の関係性に配慮してクラス編成をしていることが多い。絶対にそうなるという約束はできないが教員に伝えておくことがいいと思う。教員としては要望を受けなくても配慮できるように、日頃から子供の様子を観察する力がなければと思う。年度の途中でも隣のクラスでの登校という提案を学校側から提案できなくてはいけないと思った。

bに対して 子供たちの社会性、社会適応能力を育む一方で、一人一人の学びの場を守ることも大事だと思う。学びの個別化を目指す必要がある。教科ごとの少人数授業や、クラスを混ぜた授業、教科担任制の一部導入などを子供の状況を見ながら実践してきた。学びを守るために学校は柔軟でなければならないと思った。また、兄弟学級や縦割り活動は、コロナ禍で学年を超えての交流が禁止されている自治体も多く大変難しい現状である。

dに対して 現代では子供たちの「逃げ場」が減ってきているのではないかと感じる。嫌なことがあった時に、近所のおじいちゃんや駄菓子屋のおばちゃん、図書館のお姉さんの所に行って心を落ち着かせていた記憶がある。学校のみならず地域で子供を育てる意識が日本の中で薄れてきてしまっていることが残念である。だからこそ、意図的に子供たちをいろいろな人と場所につなげていくことを大人が働きかける必要がある。

D cに対して まさしくそうだと思う。昭和の時代には「昭和のおじさんおばさん」がいて、そこでいろいろなことを学んでいた。「知らない人」に会う機会が、現代の子供は少ないような気がする。そこで学べるいろいろなことが少ないことは残念である。

B cに対して 学びの個別化の具体例が知れた。自分の学校でも少人数や教科担任制を取り入れ始めている様子だ。個人の学びは多様であるので昨今は少しずつ学校が柔軟に対応しているのかもしれない。コロナ禍では異学年交流は現実味がない。ネット環境が整っていればできなくはないのかと思うが、実際のネット環境はそんなに強固でない。








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