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能登地震「珠洲原発」20年ほど前に計画凍結(日刊ゲンダイ 2022年6月21日)

震度6強から1週間~能登半島の地下で何が起きているのか
水の上昇動向、観測困難=能登の群発地震要因―東工大教授「今後も備えを」

一つ前の記事『釣りバカ日誌と原子力発電所の関係(週刊現代 2011年5月7日・14日)原子力発電所の立地(東京湾沿岸には火力発電所のみ設置)関東大震災から100年』を要約すると、危ない橋を渡る(人口密度が高い大電力消費地の近くに建設する)わけにはいかないので、冷却を海水に依存する日本の原子力発電所は(釣りバカ日誌(映画)のロケーション撮影が行われるような漁村や漁港や漁場に近い)過疎地に建設されてきたという内容でしたが、2021年9月16日の地震(M5.1)、2022年6月19日の地震(M5.4)/ 2022年6月20日の地震(M5.0)、2023年5月5日の地震(M6.5)以降、SNS等で大勢が発信している通り、地震が続く能登半島の珠洲市には、高屋町(たかやまち)に1基(135万kW)と三崎町(みさきまち)寺家(じけ)に1基(135万kW)、原子力発電所を建設する計画がありました。(関西電力が高屋地区、中部電力が寺家地区で立地を計画し、北陸電力が調整役を務める、3社による推進体制。)

高屋地点】珠洲市 高屋町 【寺家地点】珠洲市 三崎町 寺家

https://www.jma.go.jp/bosai/map.html?contents=earthquake_map

発生時刻 2023年5月5日 14時42分
震源 北緯 37.323 東経 137.182 深さ 12km
規模 マグニチュード M6.5

様々な紆余曲折を経て、計画が浮上してから28年後の2003年に白紙撤回されましたが、反対運動を圧し潰して発電所が建設され稼働していれば、1週間前の地震の後、由々しい事態に発展していたかもしれません。20年前に計画を撤回した電力会社3社(中部電力、北陸電力、関西電力)の経営陣に感謝するべきでしょうか...

概要

2023年5月5日14時42分頃に発生した石川県能登地方の地震(M6.5、最大震度6強)について、だいち2号の観測データを使用し、SAR干渉解析を行いました。

その結果、珠洲市北部で最大約20cmの隆起、最大約10cmの西向きの変動(暫定値)がみられます。

珠洲市内の山地等では局所的な変動が多数みられます。

堅牢な原子力発電所は20cm程度の隆起や10cm程度の横ずれではびくともしないかもしれませんが、北海道から沖縄まで、日本列島に揺れない土地はありません。

石川県能登地方(珠洲市付近)の地震活動と防災事項
石川県能登地方(珠洲市付近)の地震活動と防災事項

例えば、燃料電池に欠かせない水素や火力発電所の(混焼)燃料になるアンモニアをカーボンフリーで大量かつ安価に製造・運搬・貯蔵することができれば、原子力発電所への依存を軽減することができそうですが、原子力村の復権へ一直線に向かう永田町と霞ヶ関の方針が揺らぐことはなさそうです。

尚、ウランやプルトニウムではなく重水素を利用する核融合発電が実現するにはあと数十年はかかりそうです。


原子力産業新聞 2003年12月11日 第2214号 <2面>

【中部、北陸、関電】珠洲原子力発電所建設凍結を申し入れ

中部電力の川口文夫社長、北陸電力の新木富士雄社長、関西電力の藤洋作社長は、5日午前、珠洲市役所に貝蔵治市長を訪ね、3社が珠洲市の高屋・寺家両地点で進めてきた原子力発電所計画について、「凍結」する旨申し入れた。3社長は5日午後には石川県庁を訪れ、谷本正憲知事に計画凍結を伝えた。1975年11月に珠洲市と市議会が立地調査を当時の通産省に要望してから28年、3電力は立地調査を実施できないまま、計画は大きな曲がり角を迎えた。

中電、北電、関電の3社は凍結の理由として、①電力需要の伸び悩み②将来の電力需要は穏やかな伸びとの予測③電力自由化による厳しい経営環境を予測④地元情勢は可能性調査も実施困難で用地確保の見通しが立たない――等を挙げた。最近の電力需要については「長引く景気低迷や省エネルギーの進展等により電力需要の伸び悩みが顕著」とし、将来の電力需要についても「人口の減少や製造業の海外シフト等、経済社会構造の変化が進むと予想され,電力需要は従来に比べ緩やかな伸びにとどまらざるを得ない」と予測している。電力会社の需給見通しや経営上の判断で、原子力発電所新規立地計画が「凍結」されるのは初めて。

3社が原子力発電所立地を計画していたのは、珠洲市内の高屋町と三崎町寺家の2地点(=図)。1975年11月に珠洲市と市議会が立地調査を通産省に要望、翌76年3月から77年1月に同省が予備調査を実施。同年3月には3社でプロジェクトチームを編成、84年4月には3社が「珠洲電源開発協議会」を設置、86年6月には珠洲市議会が全会一致で誘致を決議した。89年5月に高屋地点で関電、北電が立地可能性調査を開始したものの、同年6月には反対運動により調査が中断、以降、調査再開に至っていない。1993年には総合エネルギー対策推進閣僚会議で、「要対策重要電源」に指定されていた。

3社は、既に取得・賃借した用地の扱いについて、これから地元と協議していくとしている。一方、北陸電力の新木社長は記者会見で、珠洲原子力発電所を来年度の供給計画には載せない旨明らかにした。

原子力産業新聞 2003年12月11日 第2214号 <2面>

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/nuclearpower/japan/040509_01.html

(能登)半島の2計画 正反対の結果

関西、中部、北陸の3電力が石川県珠洲市に共同で計画していた珠洲原子力発電所の建設が昨年12月に凍結された。一方、北陸電力が設置した志賀原発(同県志賀町)では2号機が2006年3月の運転開始を目指して工事が進んでいる。同じ能登半島に計画された両原発。スタートしたタイミングはわずか8年の差にすぎなかったが、約30年たった今、一方は2基目が稼働目前にこぎつけ、もう一方は調査にも入れず撤退―と、まったく異なる結果を生んだ。(編集委員・宮田俊範、写真も)

迷走28年 対立の傷

能登半島先端の禄剛埼灯台にほど近い珠洲市高屋地区は、一本の県道と漁港を中心に約七十軒の家屋が立ち並ぶ漁村。灯台を挟んで反対側にある三崎地区とともに、二十八年にわたる珠洲原発計画の予定地となっていた。

その歴史を物語るのは、反対派住民が電力会社の動きを監視するため建てた見張り小屋ぐらい。今は静かな漁村の営みに戻っている。

珠洲市は三月末、計画凍結を受けて一九九一年から設けていた電源立地対策課を廃止した。同時に市を定年退職した「最後の課長」の徳間勝則さんは「この二十八年間、市民は推進、反対の立場を問わず、大なり小なり影響を受けてきた。今となってはこの二十八年間がいったい何だったのか、と問わずにはいられない」と口調を強めた。

計画は、市議会全員協議会が七五年に適否調査を国に要望し、事実上の原発誘致を表明したことに始まる。当時は隣の福井県で日本原子力発電の敦賀原発や関西電力の美浜、高浜原発などが相次いで運転開始。第一次石油ショックで石油も高騰し、国は原発建設を急ぐ状況にあった。

珠洲市は五四年に九町村が合併して市制を施行したが、当時は合併時の人口三万八千人から二万八千人へと一万人も減少。能登半島の最先端という地理条件が災いして激しい過疎に見舞われ、高度経済成長から取り残されていた。徳間さんは「今では人口が二万人を切っている。企業進出が見込めない中、原発誘致に過疎対策を託す以外に、どんな方法があっただろうか」と説く。

過疎脱却の願いを込めた原発誘致。しかし、七九年に米スリーマイル原発事故が起き、三電力が本格的に立地活動に動き始めたのは八四年からと遅れた。続く八六年には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故。地元の反対運動は盛り上がった。

関西電力は八九年に高屋地区で立地可能性調査を手掛けようとしたが、反対派住民約三百人が市役所の一部を四十日間にわたって占拠。結局、調査に入れず、計画は具体化しないまま昨年十二月の計画凍結を迎えた。

電力三社が計画凍結を珠洲市に申し入れた日の夕方、徳間さんに経済産業省から一本の電話がかかった。「今日から交付金は使わないでもらいたい」。国の要対策重要電源地点の指定が取り消されることが決まり、交付金の使用を差し止める通告だった。徳間さんは「われわれは国策に長年協力してきた。電力会社は冷たいが、国もさらに冷たい。これでは国策に協力する自治体などなくなる」と語気を荒げた。

珠洲市から車で約二時間、能登半島中央部にある志賀町では今、志賀原発2号機の建設が82・6%まで進んだ。総工費三千七百五十億円。出力百三十五万八千キロワットの最新の原子炉とあって、見学者はこれまでに六万八千人に上る。

志賀原発建設所長を務める辻井庄作取締役は「2号機の建設はスムーズに進んでいるが、計画が最初から順調だったわけではない。それどころか全国で最も難航した原発だった」と明かした。

計画開始は高度経済成長の最中の六七年にさかのぼる。当時の中西陽一・石川県知事と金井久兵衛・北陸電力社長がトップ会談で決め、「能登と加賀の格差是正」との狙いも込めて始まった。

だが、建設予定地は二転三転。さらに原発の敷地が人家近くまで押し寄せるため、地元の赤住地区の住民が賛成、反対に分裂してしまった。

原発受け入れの是非を問うため、七二年には地区住民約三百四十人による日本初と呼ばれた「住民投票」を実施。しかし、どちらに決まってもわずかの差となることが予想され、いっそう混迷しかねないと判断した石川県は開票せずに投票を破棄する調停案を示した。地区総会もこの勧告を受け入れ「幻の住民投票」となった。

辻井取締役は「今では投票結果を知るよしもないが、赤住地区の住民はその後も何度も協議を繰り返し、最終的には同意してくれた。今では地区住民で原発内の食堂で働く会社を運営するほど協力してもらっている」と説明。1号機は計画開始から着工まで当時としては全国最長の二十一年がかりだったが、2号機では建設申し入れから六年で済んでいる。

同じ能登半島に計画されながら、正反対の結果となった珠洲原発と志賀原発。珠洲原発の凍結は地元合意が図れず、高屋地区と三崎地区でそれぞれ一―二割の未買収用地が残ったことが直接の原因であり、間接的には志賀原発よりわずかに遅れたタイミングが、その後に国内外で起きた原発事故や電力自由化などの影響の大きさの違いとなって表れたといえる。

二十八年にわたる計画の迷走は市民に対立の傷跡を残した。推進、反対の立場を問わず、多大な徒労感をもたらしたことも確かである。

https://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/nuclearpower/japan/040509_02.html

世界でも珍しい交付金 

過疎対策 試算で1000億円

珠洲市をはじめ、原発誘致を計画した自治体の多くは過疎に悩んでいることで共通している。その自治体の狙いは過疎対策の財源となる交付金・固定資産税の獲得であり、モデルケースでは二十年間で総額約九百億円に上る。原子力推進はエネルギー安定供給などを図るための「国策」だが、世界でも類を見ない巨額の国費投入で支えられているのが実態だ。

国は一九七四年に設けた電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法のいわゆる「電源三法」に基づき、原発が立地する自治体や周辺自治体に交付金、補助金を出して立地促進を図ってきた。

ただ、立地の段階や使う目的などによって電源立地等初期対策交付金や電源立地促進対策交付金などさまざまに分かれ、使途も決められていた。制度が複雑で使い道も道路やスポーツ施設の建設などハード整備中心との批判が根強く、昨年十月から電源立地地域対策交付金に一本化。地場産業振興や観光開発、老人福祉サービスなどソフト事業にも使えるように変更された。

自治体にどれだけ交付金や固定資産税が入るのか―。資源エネルギー庁が出力百三十五万キロワット、建設費四千五百億円、建設期間七年で試算したモデルケースでは、二十年間で総額八百九十三億円となる。内訳は、電源立地地域対策交付金が五百四十五億円、固定資産税が三百四十八億円だ。

年次別では、環境影響評価開始の翌年度から着工前までの交付金は五億円余で、着工すると五十億円以上にアップ。固定資産税が入る運転開始の翌年度は七十億円台にアップしてピークを迎える。それから次第に減っていき、運転開始十年で半減状態となる。

原発の運転は現在、三十年から六十年へと延長され始めている。百万キロワット級原発が立地すれば、自治体に入る収入は廃炉になるまでには総額一千億円を超えることになる。

電源立地地域対策交付金以外にも、企業への低利融資や雇用増加につなげる地域振興事業の支援などさまざまな種類の交付金、補助金の制度がある。これらは、電力会社が販売した電力量に応じて国に納める電源開発促進税(一千キロワット時当たり四百二十五円)が財源だ。つまり、消費者が電気料金の一部として負担している。

二〇〇四年度予算では、電源立地地域対策交付金だけで千百二十四億円が計上されている。欧米では立地地域へのこうした巨額の交付金は珍しく、フィンランドのように固定資産税率などで立地地域を優遇している程度。原発の誘致は主に雇用対策や経済波及効果への期待が中心である。

一方、日本の制度では運転開始後十年、二十年とたつと自治体の収入が細る。このため地元は再び原発の建設を求めがちであり、集中立地が目立つ背景には、こうした交付金制度の存在がある。


能登半島地震(2007年3月25日、M6.9)を踏まえた志賀原子力発電所の耐震安全性確認に係る報告について(北陸電力株式会社)





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