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筑紫哲也「原理 − 不可解な右翼の沈黙」多事争論(朝日ジャーナル 1984年12月14日号)− 統一教会と国際勝共連合に騙され続けた右派の政治家や論客(2)

以前の記事「勝共連合は民族主義運動の敵だ‥文鮮明王朝建設に利用される日本の若者(朝日ジャーナル 1985年2月1日号)− 統一教会と国際勝共連合に騙され続けた右派の政治家や論客(1)」で紹介しましたが、朝日ジャーナルに寄せた記事の中で一水会代表(当時)鈴木邦男氏が『筑紫哲也氏の「原理-不可解な右翼の沈黙(本誌一二月一四日号)を読んで少し考えが変わった。この種の挑発にはやはり乗るべきだと思った。』と述べていましたので、当該記事(朝日ジャーナルの巻頭コラム・多事争論)を本稿末尾に引用します。旧統一教会と日本国内の右派が手を携えていることは、当時においても、不可解であったようです。

いまでも多事奏論という複数の記者による連載コラムが朝日新聞に掲載されていますが、『多事争論』は筑紫哲也氏が長年キャスター(アンカーマン)を務めたNEWS23(TBS)の番組終盤に放送される人気コーナーでした。

また、朝日新聞を辞めてNEWS23を始める以前、1984年から1987年まで筑紫哲也氏は朝日ジャーナルの編集長を務めましたが、その当時執筆した巻頭コラムが『多事争論』でした。

尚、筑紫哲也氏(大分県日田郡小野村出身)は丸山眞男氏のもとで福沢諭吉(大分県中津藩士)の『文明論之概略』を勉強する機会があり、その勉強会の中で「多事争論」という言葉に出会ったそうです。

文明論之概略

福沢 諭吉 著 明治8年(1875年)

第二章 西洋の文明を目的とする事

(前略)

(中国と日本の文明の違いについて述べた節の一部)

故に単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し。秦皇一度此多事争論の源を塞ぎ、其後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家は屢交代すと雖ども、人間交際の趣は改ることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、其仕組に最も便利なるがために独り孔孟の教のみを世に伝へたることなり。

(【現代語訳】 故に単一の説を守ると、説の性質がたとえ純精善良であっても、決して自由の気風を生む事はできない。自由の気風はただ多事争論の間で存在すると言うことが判る。秦の皇帝は一度多事争論の源をふさぎ、その後は天下がまた統合されて長く独裁政治に戻り、政府はしばしば交代したが、人間社会の趣は改まることなく、至尊の位と至強の力が一体になって世の中を支配し、その仕組みに最も便利だったために、独り孔孟の教えだけを世に伝えたのである。)

(後略)


朝日ジャーナル(1984年12月14日)26巻51号 3頁

多事争論


原理-不可解な右翼の沈黙

「戦後、この国に本当の右翼などなかった」

ある時そういい出したのはほかならぬ野村秋介氏だった。右翼中の右翼、一八年もの歳月をその右翼的行動のために獄中で過ごした男である。

あったのは〝商売用〟の右翼と「反共」だけを売り物にした右翼にすぎない、という。

同業は同業にきびしいのが常である。それに本当の、というその本当が何を意味するかも議論のあるところだろう。

だが、そういわれてみると、右翼とは何なのか、わからぬところが多い。本誌はその右翼から目の敵にされることが多く、世間では左翼だと思う人が多いことも事実だが、いわれる当事者の側にすれば、左翼にもいろいろある、と開き直りたいところもある。

長らくアメリカの左翼リベラル派に属してきた老人に「お若いの、これだけは覚えておきなよ」と説教された経験が私にはある。「左の足を引っ張るのは右じゃない。いつも身内のはずの左の側なんだぞ」と。

いまや「お若いの」ではなくなった私にも、そうかも知れないと思い当たることがないでもない。

それにしてもこの国の右翼についてわからないことの手近な例は文鮮明師=統一教会=原理運動との付き合い方である。

この運動の〝原理中の原理〟を説き明かしている『原理講論』はイエスが再臨する「東方の国」が韓国以外にありえない理由をこう述べる。

聖書のいう東方の国とは韓国、日本、中国の三国しかありえないが、日本は「代々、天照大神を崇拝してきた国として、さらに、全体主義国家として、再臨期に当っており、‥‥‥韓国のキリスト教を過酷に迫害した国」(第六章、再臨論)だから失格、中国は共産化したから論外、どころかこの二国は「サタン側の国家」だという。

そしてイエスが再臨するのが韓国なのだから、その世界で使われることばは当然、韓国語となる。

運動の資金をまかなっている主力は日本の信者だと見られているが、これも韓国が「アダム」側で日本は「エバ」側であり、教義の示す男女観からいえば男に女が貢ぐのは当然だからという。

天照大神を源とする神道、それと連結する天皇制、やまとことばとやまとの心の尊厳、そして「ますらを」ぶりを軸とする日本民族の独自性などの護持を説いてやまない人たちが、こういう教義を黙視していることが不思議である。

ところが、実際は右翼とこの運動とは同一視されかねないほど濃密な関係を保ってきたように見える。右派ジャーナリズムと原理系ジャーナリズムはなかでも〝連携プレー〟が目立つが、文師主催の世界言論人会議での主賓もまた、政治家のなかでもっとも右翼の支持が厚いといわれる岸信介、福田赳夫の両氏であった(本誌先週号参照)。左翼同様、いろんな右翼があっていいし、あるのだろうが、最低限はっきりしていいことはある。

筑紫 哲也

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