カエルの唄
大勢のおたまじゃくしが沈んでしまいました。
カエルになることなくして。
薬剤を投入されたようです。
この形からあのカエルになるなんてあまりにも不思議だなぁと、毎日覗き込んでいたから寂しいです。
これも商売のためか。
人が生きるということはなんて多くの犠牲の上に成り立っているのだろう、とスシローで注文した皿が来るのを心待ちにしながら考えていました。
切り身になる命もあれば、その目の前で、どう生きようかとあまりにも真剣に考える命もある。
どこに公平さなどありましょうか。
人間とその他の命ではやはり違うようですね。
害獣と呼ばれ、無防備な身体に撃ち込まれる弾丸が許される領域があるのです。
気持ち悪いと蹴飛ばされる毛虫があるのです。
踏み潰されたことさえ気づずに、情けない格好で地面で乾き切ってしまう甲虫がいるのです。
ガラスを知らずに首の骨を折る野鳥は愚かでしょうか。
あまりにも多くの命が当たり前の奇跡として生まれて、偶然のように呆気なく死んでいきます。
僕はといえばそんなことすぐに忘れて、やがて手のひらサイズのコンピューターに全集中力を奪われていきます。
何を知ろうとしているのか、はたまた何を見まいとしているのか。
画面の中の情報の海は本物の海に比べて、どれほど大事なことを教えてくれるんでしょうか。
ところで、
「井の中の蛙大海を知らず。」
という諺には続きがあるそうで
僕は昔それを弟から教えてもらって泣くほど感動した覚えがあります。
続きは
「されど空の青さを知る。」
です。
これは荘子のオリジナルに日本で付加されたものだと言われていますが、誰が付け加えたのか、それが真に有意義なことかはどうでもよくて、僕はこの清々しさにとても胸を打たれました。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。」
なんとも強かで、しなやかで、飄々としている。
馬鹿にされたって構わない。と笑えそうな、
やり場のない理不尽に見舞われたって乗り越えられそうな、人には言わせたいように言わせておけばいいのだと、支えてくれるような言葉です。
この時期になると、田舎ではあちこちでたくさんのカエルが唄っています。
誰に聴かせたいのか、メスか、それとももしや祈りの唄だったりするのか、ただの本能でありそんなドラマは存在しないのか。祈りだとして、何に対して祈るんだか。
彼らには戦争も平和もなさそうです。
わかりませんが。
実は僕がなぜ唄っているのかもよくわかっていません。
自分が音楽を作ることが好きで、自分の救済のために作り始めた唄を、あなたのためだなどと本気で思って唄えるほど素直で純真な人間じゃないようです。
では人前に出る必要がないかと言われれば、聴いてほしくてLiveをするわけです。
聴いてもらうことを楽しみにして作るわけです。
聴いてくれた人が、よかったと言ってくれるからまたやりたい、となおのこと思えるわけです。
なぜ音楽に惹かれるのか、言葉で説明できそうもありません。
おたまじゃくしがカエルに変形する神秘と似ています。
今夜も日本のあちこちで、幸運なことにカエルになれたおたまじゃくし達が、その生を謳歌しています。
その唄声は、あるいは誰に聴かれることもないまま夜に吸い込まれていきます。
人間界の傍にそんな世界があることが幾度となく拠り所となって僕を支えてくれます。
運命論者ではありませんが、抗いきれない何かしらの作用が個々人の辿る道に影響を与えているような気がしています。
ただし、そのパターンは無数にあるとも言われていたりとややこしいです。
時間は伸び縮みしています。それらの錯覚はすべて頭の中で起きます。
色々な物理現象が複雑に絡み合い、矛盾の様相を呈して人間を惑わせます。
しかし、すべて秩序の中に帰結する確かさを感じます。
複雑なふりをした無秩序は実は簡潔な秩序です。
騙されないように、複雑さを愉しみながら、僕はシンプルなコード進行で、シンプルなメロディを描こうと思います。
僕の能力ではそれしかできないんですけど。
水路に弱く流れる水に流されていく、1匹のおたまじゃくしに、大自然に翻弄される1人の人間が見えました。
カエルが鳴くように、いや、カエルが唄うように、謎の欲求に導かれて僕も唄います。
いつしか、言葉だけが唄のすべてではないと言い出すかもしれませんが、それは普遍のこと。
どこか、木が響く場所で会いましょう。
間近のソロコンサートです。静岡県富士宮市の木立の中のギャラリーにて。↓