上場SaaSのマルチプル相関分析 ---日米SaaS企業の市場評価と成長戦略
1. はじめに
2021年秋頃から下落傾向にあった上場SaaS企業の平均マルチプル(※本記事ではEV/revenue(FY1)とします)ですが、以下のグラフの通り、22年春頃に5x程度で落ち着き、以降概ね同水準で推移しております。これは日本でも米国でも同じ状況です。
しかしこの数字をもって、「SaaS銘柄のマルチプルは5x」と一様に判断するのはミスリーディングであり、その裏にあるマルチプルに影響を与えている指標を理解することが重要です。本記事では、各指標とマルチプルの決定係数(R2)を用いて、マルチプルに影響を与えている指標について考察したいと思います。
先に結論としては、国内上場SaaSについては、ARR 上位50%のSaaS銘柄と、下位50%のSaaS銘柄では、市場からの評価(マルチプル)に影響を与えている指標が異なり、違うゲームであることがデータから分かりました。SaaSスタートアップにとっては、目指しているIPOの形によって未上場マーケットで取るべき戦略も異なってくるものと考えております。
2. 米国SaaS企業における各メトリクスとマルチプルの決定係数(R2)推移
まずは米国SaaS銘柄全体についての大まかな流れを掴むため、こちらの図をご覧ください。これは米国SaaS銘柄全体について、
成長率とマルチプルの決定係数(R2)(オレンジ色実線)
rule of 40 (= growth rate + margin) とマルチプルの決定係数(R2)(青色実線)
成長率平均(オレンジ色点線)
Growth rate + marginの平均(青色点線)
の推移を見たものです。
こちらの図より、米国SaaS銘柄全体についての大まかな流れとして、
まず、①の2022年1Qでは、21年秋以降の金利上昇を受け、投資家側の関心が収益性にシフトしていることが分かります(rule of 40の相関(R2)が急上昇)
②の2023年1Qでは、①を受け、企業側が成長性→収益性にシフトしていることが分かります(成長率低下、FCFマージン上昇)
③の2024年1Qでは、②を受けて再び、投資家側の関心が成長性に戻っていることが分かります(成長率の相関(R2)が緩やかに上昇)
24年5月に札幌で開催されたB Dash CampのDNXセッションにてマネーフォワードの金坂CFOが、「22年以降、機関投資家側に“SaaSは本当に利益が出るのか?”という疑念があったように思うが、実際にその後USのSaaS企業がしっかりと利益を出し始め、再び投資家側の関心が成長性に戻ってきた感覚がある」という趣旨のことをおっしゃっていましたが、まさにそのような現場感覚がデータで示されていると言えます。
また、今年に入ってrule of Xと呼ばれる、成長率に重みを付けた指標の方が従来のrule of 40よりマルチプルとの相関が強く見られたというデータもあり、マーケット全体としては(過去のようなgrowth at all costではないものの、efficientな)growthへの回帰が見られていると言えそうです。
では次に、これらの分析をもう少し詳しく見るために、以下ではARR規模別に見ていきたいと思います。
3. ARR規模別マルチプルの決定係数(R2)推移
3-1. 米国SaaSのARR規模別マルチプルの決定係数(R2)推移
まず、米国のSaaS銘柄について、ARR上位50%と下位50%に分けてマルチプルの決定係数(R2)の推移をみてみます。なお、ARR上位50%と下位50%の境界は約$1Bとなっております。
これを見て頂くとお分かりのように、米国ではARR下位50%のマルチプルは成長率との相関が強く、 ARR上位50%のマルチプルは成長率+利益率との相関が強いことが分かります。
つまり、米国では概ねARRが$1Bを超えるまでは利益を積極的に出すタイミングではなく、相応の規模になったタイミングで収益性が求められていると考えられます。
次に日本のSaaS企業について見てみたいと思います。
3-2. 国内SaaSのARR規模別マルチプルの決定係数(R2)推移
日本のSaaS銘柄について、ARR上位50%と下位50%に分けてマルチプルの決定係数(R2)の推移をみてみます。なお、ARR上位50%と下位50%の境界は約70億円となっております。
これを見て頂くとお分かりのように、日本ではARR下位50%のマルチプルは成長率+利益率との相関が強く、 ARR上位50%のマルチプルは成長率との相関が強いことが分かります。
つまり、以上をとまとめると、米国では
ARR規模が大きいSaaS:「成長率+利益率」のマルチプル説明力が高い
ARR規模が小さいSaaS:「成長率」のマルチプル説明力が高い
という結果に対し、
日本では、
ARR規模が大きいSaaS:「成長率」のマルチプル説明力が高い
ARR規模が小さいSaaS:「成長率+利益率」のマルチプル説明力が高い
という、日米で真逆の結果になっています。
3-3. ARR下位50%の国内SaaSマルチプルは本当にrule of 40と相関しているのか?
上記ではARR規模が小さい国内SaaSのマルチプルは「成長率+利益率」との相関が強いという結果でしたが、もう少し詳しく見てみます。
例えば以下の図は、ARR上位50%と下位50%に分けて、マルチプルとEBITDAマージン・Net Incomeマージンとの決定係数(R2)の推移を見てみたものです。このグラフを見て頂くとお分かりのように、ARR規模が小さい国内SaaSのマルチプルはこれらマージン指標との相関が強くなっています。
成長率との相関が弱かったことも合わせて考えると、ARR規模が小さい国内SaaS銘柄は rule of 40や成長率といったSaaS指標ではなく、一般的な利益指標により評価を受けていると解釈するのが良さそうです。
そしてその背景には、投資家構成の違いがありそうです。つまり、国内のARR規模の小さいSaaS銘柄は、(テック銘柄の評価に精通しているわけではない)リテールの個人株主が多いことから、SaaS銘柄かどうかはあまり関係なく、他業界・他業種の銘柄と一律な基準で評価されており、例えばPERなどが市場評価のベースになっている可能性があります。他方で、ARR規模の大きいSaaSとなると、テック銘柄の評価に慣れている海外機関投資家も入ってきますし、SaaS銘柄としてトップラインの成長性で評価されていると想像します。
4. 国内SaaS企業の銘柄分布(売上高&売上成長率)
次に、この点を少し別の視点から見てみたいと思います。以下の図は横軸に直近売上高、縦軸に成長率(CAGR: FY0→FY2)をとって国内SaaS銘柄をプロットしたものです(※次年度売上高予想(FY2)の数値が取れる銘柄に限る)。
このグラフのように、国内SaaSは赤いゾーン(売上100億円未満・年成長率30%未満)と、青いゾーン(売上100億円以上・年成長率30%程度以上)の二つに大別でき、日本のSaaS銘柄は売上規模の大きな会社が成長率も高いという状態になっていることが分かります。
そして、複数の大手証券会社の方へヒアリングを行いましたが、いわゆるEV/Revenueで積極的に評価されるのは青いゾーン(売上100億円以上・年成長率30%程度以上)のSaaS大型銘柄であり、赤いゾーンの中小型SaaS銘柄は基本的にPERなど利益評価がメインになるとのことでした。赤いゾーンの中小型上場SaaS銘柄については、
TAMの小ささや成長戦略の描きにくさ、差別化・参入障壁を十分に作れていないのではないかという懸念から成長性への疑義があり、(成長余地が限定的であるなら)利益を出すことが相対的に求められる
プライスリーダーとなる海外機関投資家が入りづらく、相対的にリテール投資家層が多くなるため、SaaSでよくみられるARR成長率やrule of 40ではなく一般的な利益指標で見られがち
中小型銘柄は上場後に成長のための大きな資金調達をしていくことが難しく、経営としても利益を出さざるを得ない。その結果、成長率も陰る
など様々な要因が重なり、青いゾーンのSaaS銘柄とは異なるゲームになっていると思われます。
なお、未上場マーケットの文脈でいうと、一般的にはARR成長率はARR規模に応じて逓減していくため、例えばARRが30億円を下回っている段階で成長率が30%を下回っているSaaSスタートアップは、IPO時に表右上の青いゾーンの会社のように積極的にEV/Revenueで評価される可能性が低いため、高いValuationでVCから資金調達を行うことは難しくなると思われます。(詳細はこちらのDNX記事のMendoza Lineに関する記述をご覧ください)
5. 流動性について
上記で小型銘柄は海外機関投資家が入りづらいという点に言及しましたが、この点を流動性の観点から少し見てみたいと思います。
まず、複数の証券会社の方にヒアリングをすると、やはり国内テック銘柄のバリュエーションをファンダメンタルズからサポートしているのは海外機関投資家であり、その海外機関投資家を株主に取り込むためには十分な流動性の創出が重要になるとのことでした。ではその流動性の目安は?という点についてですが、プライスリーダーとなるような海外機関投資家を呼び込むには、日次平均売買代金で概ね5億円以上の流動性が目安になるとのことでした。実際に、国内上場SaaS銘柄を外国法人株主比率と日次平均売買代金でプロットしてみたのが以下の図ですが、概ね整合的です。
次に、日次平均売買代金で5億円を達成するための時価総額を逆算してみます。浮動株に対する日次回転割合のざっくりとした平均は約2.5%、浮動株比率はざっくりと40-50%程度です。すると、日次売買代金5億円を確保するためには、 5億円 ÷ 2.5% ÷ 40-50% = 400~500億円の時価総額が必要ということになります。
つまり、IPO時にプライスリーダーとなるような海外機関投資家を呼び込むためには、400~500億円の想定時価総額が必要になる、ということです。
もちろん、これより低い想定時価総額(例えば時価総額200~300億円)でも、IPO時のオファリング比率を上げることで浮動株比率を高くすれば日次売買代金5億円を確保することは可能です。ただし、そのオファリングを捌ける投資家需要が見込めるかという点や、既存株主がIPO時にちゃんと売り出しに応じるかなど、種々の論点はあります。IPOを目指すテックスタートアップのCFOとしては、IPO以降の流動性創出の観点から、ターゲットとする想定時価総額とオファリング比率、そこから逆算するミドル・レイトステージの投資家構成は重要な論点だと言えます。
6. まとめ
以上の内容を簡単にまとめたいと思います。まず、SaaS銘柄のマルチプルについて
米国では
ARR規模が大きいSaaS:「成長率+利益率」のマルチプル説明力が高い
ARR規模が小さいSaaS:「成長率」のマルチプル説明力が高い
という結果に対し、
日本では、
ARR規模が大きいSaaS:「成長率」のマルチプル説明力が高い
ARR規模が小さいSaaS:「一般的な利益指標」のマルチプル説明力が高い
という形でした。そして、国内SaaS銘柄は「売上高100億円・年成長率30%」を基準に大別でき、「売上高100億円未満・年成長率30%未満」のSaaS銘柄は一般的な利益指標によって評価されやすく、またそうならざるを得ない状況についても考察しました。そして、プライスリーダーとなるような海外機関投資家を呼び込むには、日次平均売買代金で概ね5億円以上の流動性が目安となり、概ね想定時価総額で400-500億円が一つの目安となることに触れました。
7. 最後に
日本証券取引所が、グロース市場の現状として以下のようなデータを開示しています。
グロース市場の時価総額水準について
グロース市場上場会社の時価総額中央値は60億円
31%の企業は、現行基準の水準である40億円に未達
グロース市場銘柄における上場後の成長について
グロース市場上場会社における新規上場時からの時価総額成長率の中央値は1.03倍
49%の企業は、現在の時価総額が新規上場時の時価総額を下回っている。
上場後の経過年数別に見た場合でも、グロース市場へのIPO後にIPO時の時価総額を大きく上回る成長を遂げている銘柄は限定的
上記はグロース市場全体の話ですが、いかにsmall capで上場した後の成長が難しいかを物語っています。ましてや先行投資が必要でサブスク売上がメインとなるSaaSのビジネスモデルにおいて、small capで上場すると、成長資金も機動的に調達出来ない中、短期的に利益を出すことを求められながら、大きく成長を遂げるのは非常に難易度が高いと思われます。上記B Dash CampのDNXセッションにてマネーフォワードの金坂CFOが、「今のSaaSを取り巻く環境だと、SaaSスタートアップはIPOは急がず、privateでじっくり時間をかけるのが良いのではないか」というコメントをされていましたが、まさにDNXとしてもSaaSのビジネスモデルにおいてLarge capを志向するなら、Privateマーケットで大型調達を行い、時間をかけてARRが相応規模になるまでstay privateで先行投資を続ける選択を取るべきだと思います。
逆に、ARR二桁億円前半でのsmall/mid cap IPOを見据えるのであれば、黒字を出せる体制作りに向けてIPOの数年前から舵を切って準備を進めることが必要です。そしてこの場合、未上場マーケットで売上マルチプルをベースにした評価で調達を行ってしまうとIPO時は利益指標での評価となり評価方法の歪みが発生することになりますので、特にミドル以降の資金調達戦略は慎重に行う必要があります。
どちらの選択を取るべきかは結局のところTAMの見極めや成長戦略に依るところが大きく、マルチプロダクトやターゲット拡充、海外戦略、M&Aなど、特にシリーズB前後のSaaSスタートアップでは成長戦略やその見通しに応じたIPO戦略をpublicマーケットの動向も踏まえながら舵取りしていく必要があります。
(文・新田修平)