『あかり。』 #30 チベット紀行・ラサでいったい何食うの? 相米慎二監督の思い出譚

ラサに着いた晩は、宿の食堂に集まって食事になった。体調の優れない人は部屋で待機である。

僕たちは高山病でふらふらの身体で食堂に集まった。
主催者からの挨拶があり、バイキング形式の食事が始まった。

バイキング…には違いないのだが、問題は何を食べても不味いことだった。

肉は<ヤク>という牛というか水牛というか……チベットの人たちには大切な神の獣である。農耕に働き、運搬に働き、ヤクの毛は衣料になる。ヤクバターがあり、ヤク茶があり、ヤクのシチューがあり、とにかく現地の人にとって宗教と生活の両面を支えている大切な動物なのだ。

しかし、このヤクがどうにも食えない。焼いても煮ても固くて臭いのだ。
珍味好きの監督もさすがにヤクには閉口している。

仕方なく粥を啜る。その粥にしたって、何だか情けない感じだ。

その食堂で、唯一美味しかったのがトマトとインゲンだ。どちらも東京で食べるそれより美味いんじゃないかと思えるほどだった。

今、このところスーパーで見かけるロカボ食パンを夜食に齧っているのだが、このボソボソした感じや貧しい感じのするところは、チベットで食べたパンにちょっと似ている。彼の地のパンは、同じようにボソボソしていて固くて味気なかった。変なものを買ってしまった。

主催者が、自由行動における注意点や飲酒・喫煙に関しての注意事項を話していた。高地での飲酒は控えてほしい旨が伝えられた。そんなこと言われなくても、飲めるような状況ではなかったが。
まあ、参加者の中には強がってわざと飲む人もいたから、仕方ない。

何とか、食えそうなものを腹に収めて、その晩は終わった。

「明日から、オレたちなに食うのよ?」

監督にそう言われて、僕は相当困っていた。
なんか美味いものをラサで探せと言われても、なんのあてもなかった。

それに、確かにヤクの肉を食べ続けるのは僕だって無理だった。

翌日から、ラサの街を歩いた。まだ慣らし運転である。それでも、一晩寝ると少しは身体が楽になった。吐き気もだいぶおさまってきた。この分なら数日で慣れるだろうと少しだけ安心した。

ラサの街は活気に溢れていた。中心地の『八角街』には、あちこちに市場が立ち、露店が立ち並んでいる。ここは観光地でもあり、聖地でもあり、生活者たちも住む。

道を<五体投地>というお祈りをしながら少しずつ進む人も多く見かける。初めて見ると、ちょっとびっくりする行為なのだが、あちこちで見かけるのでそのうち慣れてくる。
街のあちこちで匂うのはヤクバターだ。バター茶の香り、ヤクの油(バター?)で作ったろうそくの焼ける匂いが強烈に漂う。

監督は、街の様子を眺め「こういうのいいよなあ」とよく言った。
あちこちにバックパッカー向けの宿もあるし、観光地としても相当賑わっている。欧米の人も結構見かける。

一瞬、ここに35mmのカメラを据える監督の姿を想像した。
この場所でも、移動車のレールを敷き、クレーンにカメラを乗せるんだろうな……そんなことを想像したら、ワクワクすると同時に空恐ろしくもなる。
バックグラウンドを今、目に映るように活気あるように動かすことを考えてしまったからで、果たして、そんなことが自分にできるだろうかと思うと、小さくため息をついた。

まあ、でも、そんな現実的な心配より、ラサの街を見て歩くのは楽しかった。
今とは違ってスマートフォンなどない時代の旅だ。Googleマップもなかったけど、それはそれでなんとか工夫できるものだ。旅に一番必要なものは五感だ。(でも、正直あの時、スマホがあれば・・・とも思う)

僕は露店で、胸に<ヤクの刺繍>が3匹並んだネイビーのTシャツを買った。
「監督も要りますか?」と聞いたら、いらないと首を振った。
ラサ・八角街には土産物屋も多くあって、眺めているだけでも楽しい。僻地を旅する人たちが、世界中から訪れていて、時代が70年代にタイムスリップしたかのようだ。今はどうなのだろう。あまり変わっていないのじゃないだろうか。
ここは、確かに政治的には中国の支配下にある。
だけど、中国ではない。独自の文化を築いている(と、その時は思った)。

街のチベット料理屋に入り、蒸し餃子みたいな感じのものやラーメンみたいなものを頬張ると、中華料理ではない独特のフレイバーが口中に溢れる。
美味いか美味くないかと聞かれると困るのだが、宿よりはずいぶんマシで、慣れたらいけそうだった。固いパンも煮込みに浸して食べると滋味深いのだ。
監督は、美味いとは言わないが、まあ仕方なく食べていた。毎回これでは嫌みたいだった。
バター茶という飲み物を説明するのは難しい。ミルクティーというには違うし…。とにかく、クセの強い飲み物である。僕は全くだめだったが、監督は適当に啜りながら「まあ、美味いんじゃないか」とうなずいていた。

五体投地に身を投げ出す人につまずかないよう気をつけながら、我々は人混みを歩いた。
監督は、この地に集まる人たちをいつも興味深そうに眺めていた。

人々は何を祈っていたのだろう?
信仰に生きるとは、どういうことなのだろう?

きっと監督の頭の中では、何らかのイメージが湧いていたのかもしれない。

ラサの街をゆっくりうろついた。いずれにしろ、まだ早くは歩けない。
頭の芯に頭痛は残っているし、相変わらず鼻から深く吸って、口から細くゆっくりと吐く、呼吸は苦しい。
それでも、自分たちが煩わしい日本から遥か遠く離れて、チベットにいると思うと心が解放されていった。

ここは浮世と乖離した場所でもあるのだ。

多分それは、街全体に溢れる宗教的な空気のせいだと思う。
遠くにそびえるヒマラヤ山脈が、街全体を見下ろしている。厳しい自然は人を謙虚にするのだろう。
だから、宗教とはまた違う価値観の変わらないもの、普遍的な思想が街全体を支配している。
ここでは人間はちっぽけな存在なのである。

日本では90年代の半ばを過ぎ、はしゃいだ80年代がキッパリと終わっていた。神戸の震災があり、オウム真理教の悲惨な事件があった。
不吉な未来はすでに目の前まで迫っていた。高度資本主義の翳りが日本全体を霧のように包みはじめていた。これまで通りには、もう立ち行かないのだ。

しかし、僕は時代の気分より、自分がどうありたいか、どんな人生を歩くのかにしか興味がなかった。演出家としてなんとか一角になりたい、その一心だけで生きていた。(小さい世界観だ)

考えてみれば、演出家にとっての大きな仕事とは<時代を見つめる眼差し>そのものなのだが、当時の自分にはそんな考え方は1ミリもできなくて、時代の浅瀬でチャプチャプ泳いでいただけであった。

だからこそ、相米監督の持つ、器の大きさに憧れていたのだと思う。
そのモノの見方、角度、それを同じ場所から見たかったのだ。


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