葬送のフリーレンを大人の目線で語る
アニメ『葬送のフリーレン』のシーズン1(全28話)が終わりました。
大人ゴコロに突き刺さる作品として、最後まで視聴したのですが・・・
フリーレン関連のメディア記事があまりに低次元で頭を抱えています。
ネット民の声を紹介するという、職務を放棄した姿勢にも驚かされますが、記事の内容も「圧巻のバトル」とか「神作画」とか、いったいどこを見てるんだ?と言いたくなる幼稚さです。
ネット民の声というのも「フェルンかわいい」とか「アウラ様サイコー!」といったレベルでゲンナリします。
アニメ版フリーレンはこのテの視聴者層が支えているのですか?
私は『葬送のフリーレン』を大人視点で語ることにします。
若者視点に媚びるのではなく。
※本稿は、おもに視聴済の方に向けて書きますが、未視聴の方にも読んでいただいて本作品を観るきっかけになれば幸いです。ネタバレはありません。そもそも、優れた作品にネタバレという概念はないと思っています。
最後まで魅力的だった勇者パーティー
1話~5話はハイターとアイゼンのターンだったと思います。
ハイターは酒好きの僧侶で、清濁併せ呑む愛すべきキャラです。
とくに、晩年の生き様が魅力的でした。
僧侶として生涯独身を貫いた(と思われる)ハイターが、とある戦災孤児の命を救ったことで、まだ死にたくない、と考えるようになります。
ハイターは「死」について考えさせてくれました。
「死ぬのは怖くない」とカッコつけていたハイターでしたが、「生臭坊主」とからかわれるように、フェルンの成長を見届けるまでは死ねない、と最後は人間臭いところを見せました。
また、神に仕える身でありながら、天国があると考えたほうが人間にとって都合がいい、などと身も蓋もないことを言う。ここにもまた彼の人間臭さと人へのやさしさがあふれていました。
そして、「大人とは何か」ということも。
戦士アイゼンは、勇者パーティー 4人のなかでも地味めな存在ですが、大人ゴコロをくすぐる渋いキャラです。
最強の戦士が、強敵を前にして恐怖で震えてしまう。アイゼンは全然カッコつけないんですね。でもそれがフシギとカッコいいんです。
なぜだろう。
アイゼンのセリフにヒントがあると思いました。
アイゼンはあまり多くしゃべりませんが、彼の言葉は率直で素朴。その衒いのなさが大人の視聴者の心に響くのです。
安定の中盤からの路線変更?
6話~17話は、一時的な関係も含め多彩な新キャラが登場しますが、とくに魅力的なのは大魔法使いフランメだと思います。(アウラ様ではなく)
中盤最大の見せ場であるフリーレンとアウラの戦いは、1000年前のフランメとの回想シーンがあってこそ引き立つものでした。
フランメの思想と志。狡猾さと高潔さ。彼女の知性は人間社会の愚かしさをも的確に捉えていました。
アウラに引導を渡すフリーレンが異常にカッコいい場面でしたが、その背景にはフランメという「先生」の正しさがあった。ふたりの師弟関係にしびれましたね。
中盤は、勇者ヒンメルの魅力が徐々に明かされていくプロセスでもあったと思います。
序盤がハイターとアイゼンのターンなら、中盤はヒンメルのターンです。
ヒンメルがあちこちに自分の銅像を建てた理由。
勇者の剣を抜けなかったエピソード。
鏡蓮華の指輪をフリーレンの左薬指にはめるシーン。
基本的には “現在”の時間軸で物語は進行しますが、現在の旅よりも 80年前の勇者一行の旅のほうが楽しそうに見えます。
80年前の旅は、フリーレンの回想や夢の中に出てくるもの。フリーレンにとってはたった 10年(100分の1)の時間。それがかけがえのないものだったことに気づいていくのがわかります。
18話以降の一級魔法使い試験編からテイストが明らかに変わりました。
バトルメインの少年漫画のようになってしまった。
一気に増えた新キャラは、中二病やギャップ萌え系といった若者迎合キャラばかりで、勇者パーティーやフランメのような人としての深みがない。
若者迎合キャラがいてもいいとは思いますが、そんなのばかりというのはちょっといただけません。
商業サイドからの修正が入ったのでしょうね。
このままだと地味すぎて読者が飽きてしまうので、もう少し若者に寄せていこう、みたいに。
男子ウケするバトルと女子ウケする恋愛は、漫画・アニメの王道です。
実際、一級魔法使い試験編から俄然面白くなった、と言う視聴者は多いでしょう。
じつは、私もワクワクしながら観ていました。
いくつになっても少年のココロは残っているものですね。
バトル寄りになっても、原作者の主題がしっかりキープされていて、途中で挫折することはありませんでした。
また、若者迎合後も作品の質が保たれたのは、宮廷魔法使いデンケンの存在によるところ大だと思います。
ハイター、アイゼン、デンケン。
おじいちゃんキャラがカッコいい作品なんですよね。
これは誰の物語か
『葬送のフリーレン』は、ヒンメルの死をきっかけに後悔したフリーレンが人間を知るための旅をするお話です。
旅の最終目的地は魂の眠る地オレオール。そこでヒンメルの魂と対話すること。
なので、これはフリーレンとヒンメルの物語と言えそうです。
一方、物語が進んでいくうちに、私たちは気づくでしょう。
これはフェルンの物語なのではないかと。
勘のいい人は、第1話ですでに気づいていたかもしれませんね。
第1話は、フリーレンがフェルンと出会う場面で終わりますから。
ああ、この子が影の主人公なんだろうな、と。
フリーレンに旅の動機を与えたのはヒンメルですが、フリーレンが人間を知り、自身も人間の心を持つようになるのは、フェルンの存在によってです。
この師弟は、フリーレンが魔法の師でありながら、フェルンは人間理解の師という関係になっています。
フェルンってメンドクサイ人ですよね。怒ったり、拗ねたり、妬いたり。
そこには作者の意図があるのでしょう。
人間とはメンドクサイ生き物だから、フリーレンの人間理解の師としてフェルンほどウッテツケな人物はいません。
私は、謎解きや伏線回収にはあまり興味がないのですが、物語の終え方は気になるところです。
フリーレンが当初の目的(人間を理解する+ヒンメルと対話する)を果たしておしまい・・・なんてことはないでしょう。
とすれば、もうひとりの主人公であるフェルンの一生を描く、と考えるのが自然です。
「葬送の」フリーレンですから、フリーレンはフェルンの最期も看取ることになるのでしょう。
フリーレンにとってフェルンは娘であり母でもあります。
娘と母を同時に失う悲しみがどう表現されるのか。
泣くのでも嗚咽するのでもなく、心にぽっかり穴があいた状態でフェルンの魂を探して彷徨うフリーレンを想像しました。
エンディング曲がすでにそれを暗示しているように見えます。
物語が私たちに伝えるもの
『葬送のフリーレン』から私が受け取ったメッセージをみっつ挙げます。
ひとつめは、フリーレンが知っていく人間の不思議な感性のこと。
例えば、自分のしたことで人が喜んでくれるとうれしい。
50年に一度降るエーラ流星。
グランツ海峡新年祭の日の出。
零落の王墓・隠し部屋の壁画。
これらのどれにもフリーレンは無関心でしたが、ヒンメルやフェルンの感動する顔を見て、なぜだか自分もうれしくなっていました。
また、人間は自分が死んだ後に残される人のことまで考えて生きている。
ヒンメル⇒フリーレン。ハイター⇒フェルン。
逆のベクトルもあって、残された者は死んだ人のことを心に留め続ける。
フリーレン⇒ヒンメル。フェルン⇒ハイター。
人と人の関係というのは、生きている者同士だけではないのですね。
ふたつめ。
この物語における魔法とは何の比喩か。
それはおそらくテクノロジーでしょう。
フリーレンは、魔法が「好き」から「ほどほど」に変遷しました。
魔法が人類によって軍事転用される時代が到来し、魔法は何に使うかが大切と悟ったからでしょう。
きれいな花畑を出す魔法がヒンメルとフリーレンを出会わせたように、現代におけるテクノロジーも、人と人をつなげるものであってほしいと思いました。
みっつめ。
人間は死ぬからこそ進歩する。
ほぼ永遠の命をもつエルフは問題を先延ばしにできるが、人間はできない。人間の命は短いから、短い時間で多くのことを成し遂げる。
ひとりの人間が死んでも、その遺志は未来へ継承される。
この継承が続くかぎり、人類は進歩し続ける。
そして、人は後世の人々の記憶の中で永遠に生き続けるのです。
『葬送のフリーレン』は、継承の物語です。
ゼーリエの名前の由来は、ドイツ語の “Serie” という女性名詞だと思われます。それは≪連続・続くもの≫を意味します。
続くものとは人の思いであり、それは人間そのものだと私は思うのです。
(Ende)
【以下、蛇足ながら】
最終話 (28話) の テーマは「別れ」でしたね。
仲間とお別れするとき、ヒンメルもフリーレンもあっさり別れる。
そこにはふたつの意味があったと思います。
ひとつは、いつかまた逢える、と信じているから。
もうひとつは、たとえそれが今生の別れであったとしても、記憶の中でいつでも逢えるから。
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