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ゆうさんに言いたい。英語のこと

私こと「世界の普通から」の co-noter に「ゆう」という人がいます。
ゆうさんは、「世界の普通から」アカウントにてときどき記事を投稿されています。
今までは、ゆうさんが書いたものをメールで受け取り、原文に手を加えずにコピペしてアップしていましたが、今後はこのアカウントをゆうさんと共有することにしました。

note事務局に訊いてみたところ、複数会員で一つのアカウントを共有することは問題ありません(実際、そうしているアカウントはあります)との回答でした。
ゆうさんには「世界の普通から」アカウントから直接投稿してもらいます。混同を避けるため、文頭に「ゆうです」と付けることを条件として。

あるnoterさんが
「ゆうさんも自分のアカウントもてばいいのに」
とおっしゃいました。もっともなご意見だと思います。
「世界の普通から」の読者の方々に届けたいのと、単独のアカウントをもつことに心理的な抵抗がある、とゆうさんは言っていました。後者は精神的な負担のことを意味しているものと察しています。

ゆうさんの投稿記事はマガジン「ゆうの学びなおし」に集めてあります。


さて、co-noter のゆうさんについて長々と説明したのは、先日の記事が引っかかっているからです。

例によって、私はこの記事にいっさい手を加えておりません。
ゆうさんの記事は、社会学界隈か大学院生の生態にまつわるものがおもで、私のセンサーには引っかかりません。今回引っかかったのは、松本人志にまつわる記事に次いで2度目のことになります。

英語不要論については、私自身の半生から率直な思いを書いたことがありました。

ゆうさんの記事に私は半分同意し、半分同意できませんでした。
大学院生が英語の論文にAI翻訳を利用していることや、日本の会社員がAI翻訳で海外の取引先とやりとりしている話は、へぇ~と興味深く読みました。

また、自分の仕事が好きだからAIを使わない、と豪語された岩本さんという方のお気持ちに深く感じ入るものがありました。
りなるさんのコメントも読み、プログラマーがソースコードを書いたりするのにAIを使わない(人もいるらしい)とのお話にも大いに共感します。

じゃあ何に同意できなかったのか。

英語がまったくできない人と、すごくできる人との二極化が起こるのかもしれない。

ゆうさんの記事より抜粋

それはないですて。

私の職場(スイス)には「社内共通言語は英語」という鉄則があります。
社員の9割以上は英語ノンネイティブです。
スイス人、フランス人、ドイツ人、トルコ人、ロシア人、レバノン人、インド人、中国人、韓国人、等々。私の知る範囲だけでも30ヵ国ほどの国籍が一つの職場で働いています。
彼らには各々の母国語がありますが、話すのも書くのも100%英語で終日過ごしています。会社の “golden rule” だからです。
AI翻訳を使っている人など一人もいないし、またその必要もありません。
日本人だけがAI翻訳を使うとかありえるでしょうか?

私の職場が異次元なのか。
いいえ。東京にある会社も早晩こんなふうになるでしょうよ。
すでにそれに近い環境でお仕事をされている方はわかると思いますが、同じ空間内での同僚とのコミュニケーションはほぼオーラルですよね。
口頭での会話にAI翻訳使いますか?
使えたとしても、共通言語をもたない人間が仕事仲間として認めてもらえるでしょうか?

ゆうさんの言う「二極化」とは、日本ではむしろ今の状態なのですよ。この二極状態は今後さらに開くのではなく、方向としては逆で、英語を話さざるをえない人口は確実に増えます。好むと好まざるとにかかわらず。

「日本は、英語がまったく要らない偉大な国です」
と自分の記事に書きましたが、それは私生活上のことであって、残念ながら職場は別です。
「ビジネス英語は、自然言語としての英語のほんの一部でしかない」
というのが同記事の主旨でした。
そこに込めたメッセージとは。
「ほんの一部」だけマスターすれば事足りる。
必要最小限を求めるならそれでじゅうぶん。
ただ、終わってみればなにやらむなしい。

英語を好きで学習している人が私はうらやましい。
仕事上の必要などではなく、趣味や教養として取り組めるのですから。
“語学”とは、本来そういうものだと思います。

ゆうさん。
「自分はどっちの極に行こうか」とか考えてる場合じゃないと思いますよ。
アカデミアの道を行くなら尚更。
ビジネス英語しかできない私なんかよりはるか高みを目指してくださいな。

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