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家族を離れ、人の野へ

コロナで外出が制限されたとき、いっそ狭く生きてみるか、と考えた。
会社にも行けず、知り合いもほとんどいない香港で、妻と2人の娘とだけ関わりながら生きる人生も悪くない、と思ったのだ。

その頃、あるnoterさんが書いた一文に目が固定された。
「家族とは排他的であり、他の家族と競争関係にある」
これはどういうことかと言うと、私たちは自分の家族のことは助けるのに、隣の家に住む人が飢えて死にかけていても見向きもしない。そんな世の中はおかしいのではないか?という問題提起だ。

私は「家族というもの」の美点ばかり見ていて、負の側面を見ていないことに気づいた。国や地域社会、あるいは職場における連帯というものを捨て、家族という安息の極小世界に引き籠ろうとしていたのだ。

いつから私たちの社会は連帯しなくなったのだろう。
国家は巨大な保険機構だ。少なくとも建前としては、「公助・共助」の精神に基づき、税による再分配と公的保険でリスクをマネジする仕組みだ。皮肉にも、国が公の制度を拡大していく過程で、地域社会の住民が自発的に助け合う「互助」が失われた。

地域社会に代わって互助的な共同体の役割を担ったのは、会社だった。しかし、その会社ももはやその機能を失いつつある。
互助が機能しなくなった今、国は「自助」などと言いだした。公助によって互助を奪っておきながら、公助を半ば放棄することにしたらしい。

自助とは、自力か家族単位で何とかせよ、ということだ。家族と言っても、核家族化がほぼ完成した今では、2人からせいぜい5人までの零細集団だろう。

そのように考えると、家族第一主義、といったメッセージが蔓延している現状に政治的な意図を感じざるを得ない。
社会が極小単位に分断され、孤独な個人間の競争が繰り広げられる世界。
「万人の万人に対する闘争」と言ったホッブズも苦笑する。
闘争を避けるための国家が、370年後に新種の闘争を産み出したのだから。

家族に引き籠るのをやめようと思う。
外に出よう。人のへ。いろんな人と関わろう。気が合わない人もいるだろうが、それもいい。酢豚に入っているパイナップルだと思えばいい。異質な人と会って語り合おう。そして助け合おう。

友だち100人も要らないけど、4人家族で完結する人生はつまらない。
今こそ人間社会の原点に立ち返り、人と出会い、共に生きよう。
分断から連帯へ。新しい互助のかたちを次の世代に残したい。

#未来のためにできること