法治と民主の 2軸で世界を分類してみた
住む国を選べるとしたら、どんな国に住みたいか、と考えます。
そこで、世界にはどんな国があるか、というところへ思考がいきます。
“法治” と “民主” の概念を使い、シンプルなモデルを提示したいと思います。
本稿は、2週間前の記事の続きです。
法治の対概念はなんだろう?
法治とは、法による統治ですね。
この考え方の起源は、近代のドイツだそうです。
ドイツ駐在経験のある私からみても、現代のドイツ人が法を愛する国民であることは私の体感にフィットします。
余談ながら、ドイツ語を学んでいて、法 (Recht) と権利 (Recht) が同一単語だと知ったとき、3日間寝込むくらいのショックを受けました。
法による統治の反対はなんでしょうか?
法学をかじった方は、“人治” というワードが出てくるでしょうね。
人による統治。
これには 2つの異なるイメージがあります。
統治者に徳があり、民に倫理があるため、そもそも法を必要としない社会。
もう一つは、政治家や役人が法を無視して、自らに都合の良い属人的な判断を下す社会。
人治と聞いて私が連想するのは、中華の王朝・国家です。
むかしの中国の思想家たちは、為政者の徳を重視したようです。
『三国志』や『キングダム』の読者はピンとくるのではないでしょうか。
一方、徳のない権力者が悪政を行うのも中華的。例えば董卓のような。
つまり、徳に基づく善政も、暴君の悪政も、法ではなく人に依存した統治は中華国家の特質と言えそうです。
ところが。
超大国への覇道を歩む中華人民共和国には、それまでの中華国家とは異なるものを感じるのです。
極めて法治的なのではないかと。例えば、国家安全法によって香港の民主派を抑え込むやり口。法自体は荒唐無稽ですが、法の制定という手続きを踏むところに、かつての中国らしくない、新しい中国を感じます。
法治の思想は性悪説に基づいています。
善き人ばかりの社会には、法など不要なのです。
西洋は筋金入りの性悪説だからこそ、ガチガチの法治国家になります。
民主の対概念はなんだろう?
民主主義の反対を社会主義と言うのは、正確ではありません。
民主主義とは、政治形態の一種です。
かたや、社会主義や共産主義は経済システムの一種であり、これらの対義語は資本主義になります。
政治と経済は密接に関係していますが、両者を混同してはいけません。
民主主義の反対は、権威主義です。
文字どおり、民に主権を持たせるのが民主主義。
少数の政治エリートやたった一人の統治者に主権を持たせるのが権威主義。
前近代のヨーロッパにおける絶対王政や、現代の中国やロシアにおける一党独裁などは権威主義の例です。
貴族や王族の存在は必ずしも決定的ではありません。
ブータンのように王様がいるのに民主的な国もあります。
貴族も王族も宗教もない中国が権威的であるのと対照的ですね。
法治的⇔人治的という軸と、民主的⇔権威的という軸の 2軸でマトリクスを作成してみました。
説明不要と思いますが、対角線の関係に注目してみてください。
対角線ですから、真逆だということです。
ロシアと米国・欧州が絶対に相容れないことがわかります。
中国とブータンもですね。さらに、ブータンと親和性の高そうなチベット、内モンゴル、新疆ウイグルも中国と相容れないことが想像できます。
日本のポジションはどこか?
このマトリクス上で、日本をどこに位置づけるかは意外と難しいんですよ。
日本は法治国家だと言われていますが、法以前の徳や倫理を重んじる民族性が色濃く残っている気がします。イザヤ・ベンダサンこと故山本七平氏は、日本は ”納得治国家” である、と看破しました。法律よりも、国民が納得するかどうかが重要だということです。
日本は民主的か権威的か。
いちおう民主主義国家ということになっていますが、これも怪しいですね。
重要な政策が密室で決まり、トップダウンで国民に押しつけられ、情報開示は不十分、公文書の改竄まである。国家元首を国民が決められない。
民主的な選挙制度を持ちながら、権威主義国家の傾向もあるのが日本です。
そこで、日本を真ん中からやや法治的・民主的にポジショニングしました。
極端でない、中庸な感じが日本らしくていいね、と私は思います。
矢印は、日本が将来どの方向に向かうかの予想です。
本命: 青 (より法治・民主の欧米スタイル)
対抗: 赤 (より法治・権威の中国スタイル)
大穴: 黄 (より人治・民主のブータンスタイル)
もう少し民主的な方向へ向かってほしい気はしますが、過度に法治的な欧米化は望みませんし、人治的なブータン化は大人口の日本では無理でしょう。
結局、現状くらいがちょうどいいのかもしれませんね。