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知られざる音楽都市、ドイツ・デュッセルドルフを巡る。 ~デュッセルドルフ楽派研究~


ポピュラー音楽の最重要都市はどこか

ポピュラー音楽の歴史上の重要都市といえばどこの街が挙がるだろうか。

多くの場合、ジャズを産んだアメリカ・ニューオーリンズと、ビートルズやローリング・ストーンズをはじめとする多くの伝説的なバンドが活躍し、ブリティッシュ・インヴェイジョンを引き起こしたイギリス・ロンドンの二都市が上がるのではないだろうか。

これ以外にも想定される答えとしては、ブルースの中心地シカゴや、エルヴィスの拠点であるメンフィス、カントリーのナッシュビル、モータウンやテクノを産んだデトロイト、さらにはヒップホップが誕生したニューヨークを挙げる人もいるだろうし、ビートルズを輩出したリヴァプールと答える人も少なくないだろう。

なんにせよ、多くの場合に挙げられるのはイギリスとアメリカの都市である。
しかし、このような一般的な歴史観ではこぼれ落ちてしまう視点がある。


ロンドン、パリにつぎ、ヨーロッパで3番目に在住する日本人が多いドイツの都市デュッセルドルフ、と聞いてどんなところと想像するだろうか。
実はポピュラー音楽の歴史上極めて重要な都市であることは意外に知られていない。
街の歴史を紐解きながら、知られざる音楽都市、デュッセルドルフを探索していこう。



"総合芸術"と呼ばれた伝説のクラブ、Creamcheese(1967~76)

物語は裏路地の小さなクラブから始まる。

美術館が立ち並ぶ石畳の街並みにある建物。
かつてこの場所にCreamcheesという伝説的なクラブがあった。

Creamcheesがあった場所の現在

この場所から程近い場所にはヨーゼフボイスやゲルハルトリヒターなど近代アートの先駆者たちを輩出した芸術学校、デュッセルドルフアカデミーがある。
Creamcheesの始まりもこのデュッセルドルフアカデミーとの関係を無視しては語れない。


1950年代末、ギュンター・ユッカーはアカデミーを卒業し、アート集団「ゼロ」に参加した。
しかし、1966年、「ゼロ」は解散し、ユッカーは新たな試みに挑むことになる。
その試みというのが、ポップミュージックとアートを組み合わせるという思想に基づいて構想されたクラブ、Creamcheeseである。

Creamcheeseの元ネタ;The Dom

この構想の背景には、同時代にニューヨークで活躍していたアーティスト、アンディーウォーホルによって作られたクラブ、「The Dom」の影響がある。

https://www.boweryboyshistory.com/2023/09/recollections-of-electric-circus-if-you.html


”エレクトリック・サーカス"と呼ばれたThe Domは初期のvelvet undergroundのホームとして知られるが、The Domで行われるショーはバンド演奏に留まらず、ライトショー、パントマイム、空中ブランコ芸人など多岐に渡り、これらのショーは総称して「Exploding Plastic Inevitable」と呼ばれる一連のマルチメディアイベントとされた。
The Domはこれらのマルチメディアイベントを通してウォーホルの世界観を表現するために作られたクラブであった。
それはむしろクラブという形をとったインスタレーションアートといった方がふさわしいかもしれない。



そんな「The Dom」を目の当たりにしたユッカーは、自身の活動の拠点であるデュッセルドルフにもThe Domのような総合芸術としてのクラブを設立することを計画する。
ウォーホルと共同でThe Domの計画を行ったのが映画監督のポール・モリセイであったことに倣ったのか、ユッカーの共同計画者にも映画監督であるルッツ・モマーツが参加し、Creamcheeseは1967年にオープンした。

Creamcheeseの設立時に出されたマニフェスト、「Creamcheese宣言」。
このようにマニフェストを出すことからも、ユッカーがただのクラブを作ろうとしたのではなく、むしろ「ゼロ」のような芸術集団/芸術運動を始めようとしたことがわかる。


このようなきっかけで構想されたCreamcheeseの設立には、ユッカー以外にもデュッセルドルフのさまざまなアーティストたちが参加した。

ハインツ・マックによって作られた長さ20メートルを超えるバーカウンターは、それ自体が「der Mund(口)」というタイトルのアート作品である。


加えて、壁にはゲルハルトリヒターによって横たわる少女の絵が描かれた。

また、バーテンダーとして働く従業員も、イミ・クネーベルなど若手のアーティストや、アカデミーに通う芸術学生であった。

このような背景から設立されたクラブCreamcheeseは、地元のミュージシャンだけでなく、アーティストのインスタレーションの場としても積極的に活用された。

クラフトワークやノイ!などの地元のミュージシャンたちが集まる場所であった一方で、20世紀最大のパフォーマンスアーティストであるヨーゼフボイスが実験音楽を用いたパフォーマンスやインスタレーションを行うなど、アーティストの実践の場でもあったということは特筆に値するだろう。

このような実験的なアートのアプローチと音楽が自然と混ざり合うような環境を整えたCreamcheeseは、のちにデュッセルドルフ楽派(Düsseldorfer Schule)と呼ばれる音楽シーンを形成することに大きく貢献し、ひいてはドイツ全土のクラウトロック、NDW、そして、世界のポピュラー音楽に大きな影響を与えることになる。

デュッセルドルフ楽派の中でも特筆すべきアーティストといえば、やはりクラフトワークであることは間違いないだろう。


クラフトワークとKling Klang Studio(1970~2009)

Creamcheeseから30分ほど歩くと、そこがデュッセルドルフ中央駅だ。
美術館や芸術学校に囲まれ、情緒溢れる旧市街に位置するCreamcheeseと対照的に、デュッセルドルフ中央駅周辺は決して美しいと言える景観ではないかもしれない。
しかし、そんな中央駅に程近いところに位置するとあるスタジオから音楽史は塗り替えられた。

Kling Klang Studio、クラフトワークの拠点である。


1968年からオルガニザツィオーンとして活動していたラルフ・ヒュッター、フロリアン・シュナイダーらは、自分たちの活動拠点としてKling Klang studioを構えると同時に、「クラフトワーク」と名前を変えて活動を始めた。

クラフトワークがポピュラー音楽史上に与えた大きな影響としては、多くの場合、「電子音楽を初めて大衆に浸透させた」という側面が取り上げられる。
これは間違いない事実であるが、この功績の影に隠れてしまっているもう一つの大きな功績がある。
それがポピュラー音楽に前衛音楽/実験音楽を持ち込んだということである。

これら二つの音楽史上重大な功績を見ていこう。


前衛音楽とポピュラー音楽の接続

クラフトワークの中心人物であるラルフ・ヒュッターとフロリアン・シュナイダーは家庭環境に恵まれ、豊かな文化資本を背景にもつ人物である。

特にフロリアン・シュナイダーはアルヴァ・アールトやアルネ・ヤコブセンと並ぶモダニズム建築家のポール・シュナイダーを父にもつ。
ケルン・ボン空港などの設計で知られるポールの親交は建築家のみならず、先述のアーティストグループZEROやヨーゼフボイスなど、芸術家らとも深い交流を持ち、共同での制作なども行っていた。
また、フロリアンの母はユダヤ系のルーツを持つ著名な詩人、エヴァマリア・シュナイダーであり、彼女の家系からはノーベル医学賞受賞者のオットー・マイヤーホフなども輩出されるほどのエリート家系であった。


そのような出自がクラフトワークの音楽性にも大きく影響を与えている。
初期の音楽性を決定づけた一因として、フロリアンは、両親のレコードコレクションから発見した作曲家ピエール・アンリとピエール・シェーファーのミュージック・コンクレートを挙げている。

ヨーロッパの前衛音楽において、1940年代末ごろからフランスで成立したミュージック・コンクレーと、同時期にドイツ・ケルン電子音楽スタジオで研究が開始された電子音楽は対立関係にあったが、それを融和し、前衛音楽史のコマを前に進めた音楽家がケルンのカールハインツ・シュトックハウゼンであった。

ケルンといえばデュッセルドルフから約40km南下したところに位置する隣町であるが、カールハインツ・シュトックハウゼンを中心とするケルンのシーンもデュッセルドルフ楽派に大きな影響を与えた。
先述の電子音楽の成立に大きく寄与したケルン電子音楽スタジオや、ピエール・ブーレーズ、ルイージ・ノーノと並ぶ前衛音楽の旗手であるカールハインツ・シュトックハウゼンの存在のみならず、ケルンにはライン音楽学校新音楽研究所など優れた教育機関があった。

クラフトワークのフロリアン・シュナイダーも、クラフトワーク結成直前までその研究所の所長であったマウリシオ・カーゲルに師事していた。(マウリシオの前任者はカールハインツ・シュトックハウゼン)

マウリシオといえば著名な前衛音楽かであるが、日本ではティンパニに演奏者が突っ込む曲の作曲者としてよく知られている。


話が少々脱線したが、このような豊かな文化資本を持つ上層中産階級の出の二人、ラルフ・ヒュッターとフロリアン・シュナイダーはデュッセルドルフ音楽院の即興音楽クラスで出会い、活動を始めた。

特に初期の二作、『Kraftwerk』(1971)と『Kraftwerk2』(1972)ではシンセサイザーが使われておらず、クラフトワークの音楽の中に流れる前衛音楽からの潮流や、即興的な態度がよく見て取れる。(もっとも、当の二人は本作をクラフトワークの作品とは認めず再版を拒否し続けている。)

クラフトワークのこのような態度は、のちのプログレッシヴロックの成立などにも大きく影響を与えたといわれる。


1970年、Kling-Klang Studioを構え、オルガニザツィオーンからクラフトワークになった時期に、ドラマーとしてバンドに参加していたクラウス・ディンガーと、ギタリストとして参加していたミヒャエル・ローターは、1年で脱退しNeu!を結成することになる。
その後、Neu!が上記のような実験的/即興的な方向性を引き継いでいくのに対して、クラフトワークは電子音楽によるアプローチを先鋭させていく。
また、あまり知られていないが、クラウス・ディンガーの前任のギタリストであったフーシャン・ネヤデプールは、クラフトワーク脱退後、ミュンヘンを中心に活動していたクラウトロックバンドGuru Guruに参加している。

彼ら以外にも、クラフトワークはメンバーの入れ替わりが激しいグループであるが、その一因には中心人物であるヒュッターとシュナイダーの二人と、それ以外のメンバーの経済的・社会的な格差とそれによる価値観の違いなどがあったとも思われる。(出典)


初期のクラフトワークの活動においてもう一人見過ごせない存在がいる。
サウンドエンジニアのコニー・プランクだ。

カールハインツ・シュトックハウゼンのスタジオで下積みをしたコニー・プランクは、同じくケルンに自身のスタジオを構え、『20世紀最大のサウンドエンジニアの一人』と言われるまでの業績を残した。
その手法は、当時"なめらかで心地よいばかりで退屈な音楽"が商業的なポップ・ロックに蔓延していたことに対するアンチテーゼとして、粗野とも思えるような音楽的効果を狙ったミキシングである。
「音と空白との対比」を重視した彼のミックスは、デュッセルドルフ楽派やベルリン楽派にとどまることなく、広くクラウトロックの成立に影響を与えただけでなく、デヴィッドボウイ、ブライアンイーノらを通じてニューウェイヴやアンビエントミュージックの成立にも影響を与えた。

クラフトワークの初期作品にはコニー・プランクがサウンドエンジニアとして参加しており、彼の世界観が強く現れている。


電子音楽とポピュラー音楽の接続

保守的な定義に基けば、「電子音楽」という概念は、「前衛音楽」という概念に包括される。
言い換えれば、「前衛音楽」という大カテゴリーに属する小カテゴリーとして「電子音楽」というものがある、というのが本来の定義である。
そのため、クラフトワークの音楽史における貢献を語る際に、「前衛音楽をポピュラー音楽に接続した」ということと「電子音楽をポピュラー音楽に接続した」という二つを挙げることは重複しており、論理的には正確ではない。

しかし、今や電子音楽を前衛音楽の中に属する一ジャンルと見る傾向は非常に希薄であり、今や電子音楽はむしろ大衆に浸透し切った音楽ジャンル/音楽手法の一つである。

逆に言えば、クラフトワーク以前は前衛音楽であった電子音楽を、大衆音楽にしてしまったということがクラフトワークの凄さなのだ。

クラフトワークが電子音楽的アプローチに傾倒し出したのは、3枚目のアルバム『Ralf und Florian』(1973)であると言われている。
クラフトワークの活動において、このアルバムが初めてシンセサイザーを使用した楽曲を含むものである。


その後のクラフトワークの方向性を決定づけたのは、1974年にリリースされた4枚目のアルバム『アウトバーン』であることは間違いない。

先述の通り、このアルバムがリリースされるまでは、電子音楽は現代音楽の一ジャンルであり、ポピュラー音楽との接点をほとんど持たなかった。
しかし、このアルバムがリリースされ、さまざまなチャートで上位を記録したことによって、歴史上初めてポピュラー音楽と電子音楽が接続され、その流れは現在に至っている。
そういう意味では、現代のポピュラー音楽において、クラフトワークの影響下にいないミュージシャンを探す方が難しいと言っても過言ではない。



 このような特異な音楽集団が生まれたのはデュッセルドルフという土地ならではのことだろう。
デュッセルドルフには当時からバンドが演奏するために拵えられたいわゆるライブハウスという施設は少なく、日本のようなバンドカルチャーが育つのは難しかった。
しかし、前衛音楽の巨匠が活躍したケルンという街が程近くにあり、一方で、街の中にはデュッセルドルフ芸術アカデミーという近代アートの重要拠点があるという、特殊な土壌がデュッセルドルフであった。
実際に、クラフトワークは結成当初、大学や美術館などを主な演奏会場としていたと語っている。
このような特殊な土壌だったからこそクラフトワークのような音楽集団が生まれたのではないだろうか。


さて、クラフトワークの結成当初から共にあゆみを進めたKling Klang Studioだが、2009年にフローリアン・シュナイダーが脱退したことを機に、約10キロ西に位置するメーアブッシュという街に移転された。
現存する最後のオリジナルメンバーであるラルフ・ヒュッターは今もメーアブッシュで制作を続けているが、一方のフローリアン・シュナイダーは、ラルフがデュッセルドルフを離れたからもしばらく(2014年まで)デュッセルドルフのKling Klang Studioに残り、制作を続けていたようだ。
(2009年にラルフがクラフトワークを脱退してから、2014年までの間に彼が一人デュッセルドルフのKling Klang Studioで作ったと言われる音源は公表されていない)

そして、デュッセルドルフのKling Klang Studioに残された1970年来の伝説的な機材たちは、シュナイダーによってebay(メルカリのようなもの)で売られたという。(参考
クラフトワークの使った機材であるということを知らずにebayでそれらを買ったどこかの所有者が、また新たな音楽史を更新していくのかもしれない。



デュッセルドルフ楽派のアーティストたち

クラフトワークは間違いなく偉大なアーティストだが、デュッセルドルフ楽派と呼ばれるアーティスト群には他にも重大な活躍をしたアーティストがたくさんいる。

ノイ!

1971年に結成したノイ!は中でもクラフトワークと並んで、後世に影響を与えたバンドの一つだ。

彼らの音楽はクラウトロックの典型例の一つとして挙げられるが、クラウトロックというジャンルの内実は非常に多様であり、一概に共通点を指摘することは難しい。

先ほども述べた通り、中心メンバーであるクラウス・ディンガーとミヒャエル・ローターはクラフトワークにメンバーとして参加していた過去もある。


大雑把にいえば、クラウス・ディンガーがパンク的な音楽性を持ち、同時期に活躍したDAFやDie Toten Hosenなど、ジャーマンパンクの黎明期のアーティストたちと共鳴するような方向性を持つ。

一方のミヒャエル・ローターはエクスペリメンタル/アンビエント的な音楽性を持ち、同時期にケルンで活躍したCANなどと共鳴する方向性を持つ。
このように整理することができそうだ。

パンク的な音楽性を持つディンガーは、ノイ!解散後、La Düsseldorfを結成し、さらにその方向性を強めた。

一方のミヒャエル・ローターは解散後はソロで活躍し、ドラマーにはCANからヤキ・リーベツァイトを迎えたり、アンビエントの創始者であるブライアンイーノと協業したりしている。


後続への影響として、クラフトワークと同じく、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)などに影響を与え、ニューウェイヴ、ニューロマンティックの隆盛を下支えした点や、デヴィッドボウイやブライアンイーノに影響を与え、アンビエントの隆盛を下支えした点、イアン・カーティス(ジョイディヴィジョン/ニューオーダー)が牽引したポストパンクのムーブメントに影響を与えたことなどが挙げられる。

加えて、Stereolabも自身の影響源としてノイ!をあげており、これがポストロックの隆盛に繋がったことも面白い。


DAF

1978年から活躍したDAFはEBM、NDW(ノイエドイチェヴェレ)、さらにはハウス、テクノ、アシッドハウスなどの先駆けとも言われる先駆的な活躍をした。


DAFのメンバーの一人であったクルト・ダールケは脱退後「Ata Tak」というレーベルを立ち上げ、NDWの最重要拠点を築いた。
(2024/9/16 追記:
Ata Takからは多数の重要アーティストが輩出されたが、中でも1991年にデビューしたオヴァルは、その後のエレクトロニカの成立に大きな寄与を果たしたことを考えると特筆に値するだろう。)

また、もう一方のミヒャエル・ケムナーは、脱退後Fehlfarbenを結成し、NDWの最前線を走った。


デュッセルドルフ楽派のその後~現在

Creamcheeseが営業していた70年代が、デュッセルドルフ楽派の黄金期であると考えられているが、その後もデュッセルドルフ楽派の伝統は引き継がれている。

第二世代

代表的なグループとしては、Mouse on Mars(1993年~)、Kreidler(19994年~)などが挙げられることが多く、彼らはデュッセルドルフ楽派第二世代とも呼ばれる。

Kreidlerのメンバーであったシュテファン・シュナイダーは、脱退後、「Tal」というレーベルを立ち上げ、先鋭的なエクスペリメンタル/エレクトロニカを発信し、現在デュッセルドルフにおいて存在感を示している。
「Tal」からは、日本のエクスペリメンタルバンドGOATや、エレクトロニカアーティストのKOPYなどもリリースを行なっており、日本との繋がりも深い。

また、同じくKreidlerのメンバーのデトレフ・ヴァインリヒは、2004年にsalon des amateursというクラブをオープンした。
このsalon des amateursは、かつてCreamcheeseがあった場所の程近くに位置し、現在のデュッセルドルフの音楽における最重要拠点となっている。


第三世代とsalon des amateurs

英国ガーディアン紙の選ぶヨーロッパのベストクラブ25や、旅行ポータルの hostelworld.comの世界のベストクラブ20などに選出されていることからも、salon des amateursの重要度がわかる。

Stabil Elite(2007年~)、Grandbrothers(2011年~)、BAR(2014年~)など、salon des amateurs設立以降のアーティストたちはデュッセルドルフ楽派第三世代と呼ばれている。

確かにデュッセルドルフ楽派の伝統は細々と引き継がれているが、しかし、70年代以降、クラフトワークやノイ!のように、世界的に影響力を持つバンドがこの街からは生まれていないというのも事実である。

70年代に興ったデュッセルドルフ楽派という音楽運動の本質は、その当時の世界の最先端技術を積極的に用い、既存の観念にとらわれず、貪欲に実験的な音楽を突き詰めていくことだったのかもしれない。

だとすれば、デュッセルドルフ楽派というある種の型の中に収まらないような音楽性こそがデュッセルドルフ楽派的なのかもしれない。
そのような音楽がデュッセルドルフデュッセルドルフから生まれ、世界に大きな影響を与えることを楽しみにしている。


おまけ

今回紹介したデュッセルドルフ楽派のバンドや、その周辺の音楽家の作品をまとめたプレイリストを作りました。




参考

(記事タイトルパロディ:

)


https://www.visitduesseldorf.de/storys/2021/03/16/das-labor-von-kraftwerk/

https://www.visitduesseldorf.de/erleben/kunst-und-kultur/the-sound-of-duesseldorf

https://www.visitduesseldorf.de/erleben/kunst-und-kultur/the-sound-of-duesseldorf/exhibition

https://www.visitduesseldorf.de/storys/category/tsod-mixtape/

https://www.visitduesseldorf.de/storys/2021/03/08/sechs-wichtige-orte-die-untrennbar-mit-the-sound-of-duesseldorf-verbunden-sind/


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