瑠璃色の朝
目が覚めた瞬間、時計も窓の外も見ないうちに現在時刻を予感することがある。
8時50分。誤差はきっと5分以内。枕元のスマートフォンをむんずと掴み起こす。8時53分、ほらな、思った通りだ。
いわゆる"9時5時"の小さな会社に入ってもう3年になる。糖質制限ダイエットに勤しむ社長、昔ヤンチャしていた影が歩き方に出てしまう営業さん、無表情で何を考えているのか読めないと言われる私。正社員はたったの3人だ。
午前中だけ働いているパートのお姉さん(おばさんなどと言おうものなら鉄拳が飛んでくる)はパソコンが苦手で、人にものを教えるのが苦手な私はいつも頭を抱える。
お姉さんが趣味で作るクッキーは、バターがほわっと甘い乳製品の香りを漂わせ、食べ進めるとアーモンドやチョコチップの食感がごりごりと楽しませてくれる。にこにこ楽しんで作っている顔が見えるあたたかいクッキーだ。
ただし、大人なビターチョコレートクッキーかと思いきや焦げた玉ねぎクッキーだったりするので、油断はできない。
お姉さんは淡路島の出身らしい。毎年、4月も半ばになると実家から玉ねぎが大量に届くのだそうだ。
お姉さんはクッキーに微妙な顔をする私に向かって、「あれ、玉ねぎダメだったっけ?」なんて言うけれど、チョコの苦みを期待して焦げた玉ねぎの苦みだったことが悲しいだけだ。おいしいです、ごめんなさい。
ああ、でも、また食べたいなあクッキー。今度は玉ねぎじゃなくってホワイトチョコの…
カチ。
時計の長針が立てた無機質な音で我に返る。8時54分。
今すぐ車に乗り込んでどんなに飛ばして行っても、会社まで30分はかかる。我が愛車のミニクーパーは、残念ながら空までは飛べない。始業時刻まではあと6分。
この時間の24号線って混んでるんだよなあ。もともと車通りの多い幹線道路だったけれど、橿原と大和郡山の大きなイオンモール2つを結ぶ道となってからは、さらに渋滞が酷くなった。たくさん並ぶようになったファミリーカーの中では、退屈そうな顔をした子ども達が「お父さんまだ着かないのー」なんてブーたれているのだろう。
寝坊だ。完全に寝坊。私は寝坊した時ほど気持ちのいい目覚めを知らないし、あれほど「やべえ」と直感が訴える目覚めも知らない。
タイムリープできないかなと非現実的なことを考えながら、会社の電話番号をコールする。
プルルルル…プルルルル…
電話にはクッキーのお姉さんが出た。
私は話し始めるその瞬間、耳元で囁いた悪魔ととっさに肩を組む。
言葉の隙間にやたらと「ちょっと」が入ってくる、という自分が嘘をつくときの癖をひとつ知った。
「今ちょっと近くのコンビニにいるんですけど、ちょっと体調悪くなっちゃって。ほんと申し訳ないんですけど、ちょっと今日お休み頂きたいです」
かくして私は、盛大なる寝坊から優雅なる朝を手に入れてしまった。
去年箱根へ旅行した時に作った陶器のマグカップに牛乳を入れながら、なんて贅沢な環境なんだろうと思う。
ろくろを回して作ったマグカップはどえらいイビツで、うねうねと指の形が残っている。私の性格が顕著に表れているようだった。
色だけはきれいな瑠璃色。スタッフさんが釉薬をかけて焼いてくれているから、そこに私の性格はいない。
イビツなうねうねに取り繕ったような瑠璃色が、なおのこと私の分身のようで愛着がわいてくる。
窓の外は快晴だ。抜けるような青空。インドア派の私のことすら外へ誘いだそうとする太陽。
そうだ、玉ねぎ。淡路島の玉ねぎって本当はどんな味がするんだろう。焦げた玉ねぎクッキーでしか味を知らないなんて、なんだか失礼な気がしてきた。
家から車で行けばだいたい2時間半。うん、行けるな。お昼ご飯は玉ねぎバーガーかな。
気持ちのいい目覚めに、晴れ渡る空。
私は優雅なる朝にふさわしい瑠璃色のワンピースを選んで、いそいそと普段より濃いめに化粧をした。