失敗から学ぶ (戦国時代編)
サムネの武将の肖像画が誰か、わかりますか?
これは、実は徳川家康の肖像画なのです。もっと言えば、若い頃武田信玄に大敗した直後に、自分の「しかめっつら」を絵師に書かせた肖像画なのです。
▼ 短気で血気盛んな徳川家康
徳川家康といえば、豊臣陣営に大坂の陣を引こ起こさせるような「狸親父」というイメージがあったり、”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス” の句でも有名な通り、豊臣秀吉が亡くなるまで辛抱強く待ち続けたイメージが、一般的にはあるかと思われます。
しかし、実は短気で血気盛んな性格だったらしく(若い頃は特に)、桶狭間の戦い(1560年、家康19歳)では今川軍の先兵として戦い、総大将の今川義元の討死を聞いて切腹をしようとし、家臣からは慌てて止められたという逸話もあります。
▼ 武田信玄に大敗
徳川家康の最大の失敗といえば、武田信玄との三方ヶ原の戦い(1572年、30歳)です。
武田信玄は、徳川家康軍の2倍以上の兵力をもって、徳川家康の持つ支城に攻撃を続け、徳川家康配下の支配地域を次々と武田領へと占領していきました。
徳川家康は、武田信玄には到底敵わないとみて浜松城で籠城をしていましたが、武田信玄は徳川家康を無視して西の織田信長本軍の方へ向かおうという構えを見せました。
この武田信玄の行動に徳川家康は大激怒して、家臣らの反対を無視して追撃を敢行したと言われています。もしかしたら、同盟相手である織田信長が攻め込まれる危険性から、追撃せざるを得ない状況に追い込まれたのかもしれません。
結果、三方ヶ原にて待ち構えていた武田信玄と、不利な形で開戦するハメに陥った徳川家康との戦いは起こりました。結果、武田軍の死傷者200人に対して、徳川軍は死傷者2,000人を出し、徳川家康自身の命もあわやという大敗北を喫しました。
どうでもいい話ですが、徳川家康は命からがら逃げる際に、恐怖のあまり脱糞したという逸話まで残っています。(本当にどうでもいいw)
▼ 二度と同じ失敗を繰り返さない誓い
三方ヶ原にて以上のような大敗を喫したあと、徳川家康は絵師に自分自身の恐怖に怯えた「しかめっつら」を描かせました。サムネにある、苦虫を噛み潰したような肖像画です。
ほとんどすべての武将は、自分自身を良く見せようとした肖像画を残していますが、自分が失敗したときの姿を敢えて残したのは徳川家康だけで、二度と同じ失敗を繰り返さないための戒めとして、この絵を常に傍らに置いていたそうです。
徳川家康が優れていたのは、失敗から学ぶその姿勢にも表れています。