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'PERSONA'lization

作家の平野啓一郎さんの唱えるconception[観念モデル]に、分人というものがある。

もう、10年くらい経つでしょうか。わたしも当時読んでいた『空白を満たしなさい©平野啓一郎』と、ほぼ同時期に、新書判で'分人'についての一考察を発表する。'intelligentsia'の役割というのか、漱石や川端や大江らに連なる試論の提出は、どこかold-skoolな、'文人'らしい矜持のある方なのだなと、そのactivationを、見るとはなしに眺めてみていた。

彼が、京大在学中に芥川賞を受賞し、inter-viewに応える様を、ご飯時に、ぼんやり閑視していたのを憶えている。まだ奥行きのあるブラウン管に、映っているからという理由で見ていたニュース番組には、軽音部在籍のような髪型の、『京大』『在学中』『蠱惑されない顔姿』の、三重奏に送りだされ、どこかそれっぽく'de-fine'されている、平野啓一郎がいた。

P

分人は、'Jungian'[ユング派]の用語系でいうpersonaを、上位互換したようなところにある。幼少期にビルトインする、自動に修得するであろうinternalの作動、いわゆる'role taking others'[役割取得]におけるoutcomeの在り様〔role-playing〕を、より積極的、意識的に再解釈し、賦活性化したVer.2.0'RE-BOOT'に相当する。私見だが、分人観念の下地には、detachment[分離,超然]に浴する取替可能な外的仮面と、内的に収納されているcommitment[委託,関与]の、entanglement[もつれ合い、もたれ合い]の地平が横たわっている。つまり『脳内ポイズンベリー©水城せとな』の様相だ。

着想には、'in-dividual'そのものの語彙に纏わる、遡及と分解があるという。divid[分割]に、打ち消しの接頭辞inが被さることで'分かち難い'、つまり個人へと転じていく。ただしここには言挙げの前提がある。'分かつを分けられない'と、敢えて'打ち消し'の剰語表現をしている有り様に、'社会的集団に比して'の前哨を読み込めるのだ。ここにironicallyに振る舞う間隙を見出す。

E

これ以上分けられないのであれば、分けてしまえばいい。したらば、分けられないのに分けうることとなる。

私的領域の自己同一性に棹指し、公的領域の'persona'を超然と取替可能なものとする。それぞれの公的領域で、複数の'persona'が最適化することで、私的領域を削らぬまま、全体として最大効用を発揮する。いわば、経済学でいうリカードの比較優位説["comparative advantage",David Ricardo]を、単数系となる個の'公/私'領域に適用したもの。これは、'ネオ・プラグマティズムの泰斗'政治哲学者ローティの呈する、リベラル・アイロニズム["liberal ironists",Richard M.Rorty]の有り様と、地平を共有する。

R

私的領域を侵さぬように-侵させぬために-personaを取り換えていく。逆説的に強い個に裏打ちされるからこそ、複数のpersonaを取り扱える。いわば、自分探しの真反対に位置する、戦略的personality disorderと呼びうるものだ。かつてでいう人格障害という概念は、広汎性発達障害['器質性'に依拠]に再編され、今なおEBMに準拠し持ち出してくる専門家はいない。かつてでいう人格障害ないし「パーソナリティ障害」というcategorizeも、アメリカでは「illness」に相当するが、日本では「wellness」にあるという、斯様に文化依存的な枠組みにあり、「病気」と診断されたそれらも、概ね壮年期には順応をみせていく、という不可思議な仕様であった。「病気」が回復したのか、ただ未熟なだけだったのか、今となってはよくワカラナイ。よって今なおこの言葉が使われている際には、既得権者が昔話をしているか、もしくは"毒親"等にみる文学的な表現に、連なるところにあるものといえる。そう、つまりは文学的な地平に「パーソナリティ障害」は寝転んでいる。これに連なる『PSYCHO-PASS』という宛先も、病名ではなく、文学に連なる物言いに相当する。

戦略的personality disorder、もしくは複数形のpersonaと聞き、文学的表象にて思い当たるのは『俺ガイル©渡航』の一色いろは'いろはす'。彼女の纏う、さ・し・す・せ・そは、私的領域を侵さぬための、攻撃であり、防御でもある光学迷彩であった。

16歳で世界ランク1位になった女子テニスのヒンギス"Martina Hingis"[WTAツアー'singles'43勝'doubles'64勝]はかつて、concentration[集中]について訊ねられたときに、以下のように応えている。そもそも、なぜそんな当たり前のことを聞くのかと訝しみながら、それは'車の運転のようなもの'としていう。サイドミラー、バックミラー、各種計器類、見るとはなしに見ている-見えている-状態を集中と呼ぶ。そうしてZONEや'felt sense'と呼ばれる、揺蕩うような視線の重要さについて語る。反対に、部分に狭窄するのは集中ではなく、nervous[神経磨耗]であるという。時に、精神的な話題において、寝食を忘れ、周囲の音も耳に入らないかのような一点集中を以てこそ、美徳とされる。でもそれはnervousだという。これは斯様に示唆的だろう。ヒンギスは当時、女王と呼ばれ、とかく天才の名を戴いていた。しかしここには諧謔があり、スイスの'bullShit"な生意気ムスメ、の当て擦りが多分に含まれていた。天才にお行儀の良さなんて求めてどうする。いろはすを見ると彼女の面影を思い出す。わたしはヒンギスが好きだった。

S

戦略的personality disorderと呼ぶからには、それが意識的・作為的である必要がある。いわば'role taking others'を、'role-playing sessions'へと、更に能動態様にしていくことを意味する。これは不安神経症に惹起する'意味の無い反復運動'を、メタ的に意識化することで、(敢えてやっている)copyingへと、変換していく有り様とsynchronizedする。意識外にあれば'貧乏揺すり'でも、それを意識下にやれば、copyingとなる。両者を分かつ端境は能動にある。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー©ブレイディみかこ』に言及される、先進国標準で実装されている、義務教育過程における演劇を取り入れたワークショップ。日本にあるような観劇スタイル-empathyの唱導-ではなく、実践としての'role taking others'を、主観的体感形式にて行う。その道程にある、sessionとconflictの重なり合うベン図に、情報の非対称性は'中和'されていく。

O

日本でも平田オリザ[1994『東京ノート』39回岸田国士戯曲賞]氏を中心に、内側から経験する戯曲の有り様を、訴求する動きが見て取れる。演劇とは、他者のウチに自分を発見していく営みに他ならない。それは同時に、自分のウチに他者が住まうことを意味する。

'傾聴'という言葉は、それなりに浸透した。或いは、'心足らずは耳足らず'として『恥』の字義は屹立する(『化物語©西尾維新』)。だが言葉の'前提'となる、座る位置、位相、ポジショニングの方が、コミュニケーションの中身よりも、遥かに雄弁だったりする。ラポール[rapport:便宜に要請される'手段的な'信頼の醸成]形成において、対面に座るのか、横並びに同一方面か、45度直角に位置するのか。意識的に操作出来なければ、成果は得られない。あるいは、座位か、立ったままか。喫茶店か、ホテルのラウンジか。車の後部座席で成立する、恋や商談は計り知れない。心惹かれる相手と、どのような会話をするかより、どのような場を共有したいか、という舞台装置の選定の方が、優先度は高い。舞台装置が-自己満足的に-目的化すると、それはそれで空振ったりもするが、舞台と台詞の用法・用量-最適配合割合-を訓練できるのは、複数人の運動競技か、演劇空間しかない。

N

余談だが、『東京ノート』の前年に、'岸田国士戯曲賞'を受けたのは、『スナフキンへの手紙』の鴻上尚史氏だった。

'あなたはクサい'と、'あなたのパンツは洗っていないからクサい'は、意味が違う。冒頭のまえがきに綴られるのは、身も蓋もないコミュニケーションを徹底した、その先にある-その先にしかない-、言えなかった言葉の行方。コミュニケーションを前提する、ファウンデーションの地平が横たわる。言えなかった言葉が機能する。そこでは関係性に裏打ちされる強度のみが、輪郭を以て浮上し、臨界を試されていく。

*鴻上氏の信念-演劇はlivenessである-を鑑み、『スナフキンへの手紙』の解説は控えます。もし機会があれば戯曲本を読む体験を是非してみて下さい。ト書きを参照しながら、頭の中に登場人物を動かし読み進めるのは、(没入出来れば)とても新鮮なことと思います。

鴻上さんの話で興味深いのは、練習用etudeのプロトタイプ、いわば賄いメシのような、『トランス』という3人劇が、上演許可申請の一番多い作品として流通している、という。商業用は勿論、市民劇団、高校の演劇部などでも、観客を伴い上演する際には、有償/無償限らず、著作権管理事務所に許可申請をだす。その申請件数で圧倒的なのが『トランス』。ご多分にもれず、わたしもこの作品が好きだ。とてもウェルメイドで、シンプルで、何とも複雑。そうとしか言い様がない。コミュニケーション巧者であるほど、孤独感を深めていくparadox。コミュニケーションの不可能性を、ファウンデーションの不可避性が柔らかく包んでいく。3人揃えば、特に複雑な舞台装置も、衣装も要さない、徹底的な会話劇。しかし鴻上さん自身、これは予想だにしなかった反応である、という。

A


(続きを構築中)

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